002_03_渋谷ウォールスクリーン

「HALUCA」の小川という人物への返事を、まりあはまだ出せずにいた。

返信画面を開いては閉じる。
何か書こうとして、やめる。
その繰り返しだった。

毎日の忙しさと、慢性的な疲れのせいもあった。
その日は休みだったが、目が覚めても、なかなか起き上がる気になれなかった。

布団の中で、しばらく天井を見ていた。
ようやく体を起こし、カーテンを開けると、夏のような日差しが部屋に入り込んできた。5月とは思えないほど、外は明るい。
窓を開けると、熱い風が頬に触れた。

今日は休みだ。
それだけが、少し救いだった。
簡単な朝食を用意して、テーブルにつく。パンをかじりながら、まりあはいつものように配信サイトを開いた。

ダウンロード数は、ほとんど動いていない。
再生数も、昨日と大して変わらない。
それから、ダイレクトメッセージの画面をもう一度開いた。

<はじめまして。「HALUCA」の小川と申します>

何度読んでも、妙に引っかかる文章だった。

褒められているのに、褒められている気がしない。
誘われているのに、売り込まれている気もしない。
小川という人は、曲の出来不出来ではなく、その曲が生まれた場所を見ているようだった。

夜勤明けの空気。
明け方の色。
誰にも知られないまま一日を支えた人間が、自分を責めないようにするための言葉。

そこまで読んだとき、まりあはふと、1年前のことを思い出した。
まだ、あの言葉が曲にも詩にもなっていなかったころのことだった。

その日も休みだった。
疲れていて、何もしたくない日がほとんどだったけれど、その日は夕方になってから、ふと思った。

少しだけ外に出よう。
知らない場所ではなく、よく知っている場所を、何も考えずに歩こう。
まりあは電車に乗り、渋谷へ出た。

服を見て、雑貨を見て、買うかどうか迷って、結局ほとんど何も買わなかった。
駅近くの店で軽く食事をして、そろそろ帰ろうと思ったころには、街はすっかり夜になっていた。
渋谷スクランブル交差点は、いつものように人で満ちていた。

信号が赤に変わり、人の流れが止まる。
まりあも、その中に立ち止まった。

そのとき、背後から音楽が流れてきた。
いや、背後というより、体全体が音に包まれているような感覚だった。
足元の舗装も、空気も、周囲の人々の肩も、同じリズムでわずかに震えているような気がした。

まりあは、無意識に音のする方を見上げた。
目の前の高層ビルの壁いっぱいに、一人の女性歌手が映っていた。

渋谷ウォールスクリーン。

渋谷スクランブルスクエア東棟の西側壁面全体を使った、巨大な映像スクリーン。
その存在は知っていた。
夜の渋谷に来れば、誰でも一度は見上げるものだった。
けれど、その日の映像は、なぜかまりあの目を離さなかった。

女性歌手は、軽いテンポの曲に合わせて踊っていた。
笑顔で、けれど少し遠くを見るような目をしていた。
彼女の動きに合わせて、光の粒が壁面いっぱいに広がり、また一つに集まっていく。
建物そのものが、彼女の呼吸に合わせて明滅しているようだった。

歌手は空を見上げた。
一度、目を閉じた。

次の瞬間、再び目を開けて、軽やかに飛び上がる。
その体は、光の矢のように上空へ向かって進んでいった。

信号が青に変わった。

人の流れが、いっせいに動き出す。
誰かの肩が、まりあの腕に軽くぶつかった。
それでも、まりあは動けなかった。

その映像の中に、何があったのかは分からない。

歌詞だったのか。
メロディだったのか。
女性歌手の表情だったのか。

あるいは、夜の渋谷の空に向かって、光が伸びていく、その感じだったのか。
分からないまま、まりあの胸の奥に、最初の言葉が浮かんだ。

<羽ばたいて、高く高く>

ぼんやりしていた言葉が、少しずつ形を取り始める。

<心の果てを越えていけるよ>

まりあは、慌ててポケットからスマホを取り出した。
人の流れの端に避け、画面を開く。
指がうまく動かない。
それでも、言葉が消えてしまう前に、打ち込まなければならなかった。

近くの公園まで歩き、ベンチに座った。
周囲の音はまだ騒がしかったが、まりあの中だけは、妙に静かだった。
画面に向かって、夢中で文字を打ち込む。

<世界を抱きしめるために生まれた>

少し間を置いて、もう一行。

<光になれ、今ここから>

それ以上は、すぐには出てこなかった。
けれど、何かが始まったことだけは分かった。

現在の部屋に戻って、まりあはスマホの中の古いメモを開いていた。

1年前のあの日に打ち込んだ言葉。
まだ完全な詩にはなっていない。
曲もついていない。

ところどころに、勢いだけで残したような断片が並んでいる。
それでも、あの日の渋谷の光と音は、今でもその文字の中に残っている気がした。
果たして、この言葉が日の目を見るときは来るのだろうか。

まりあは、しばらく画面を見つめた。
それから、小川からのメッセージ画面に戻る。

<直接お会いして、お話がしたいと思っていますが、可能でしょうか?>

返事は、まだできなかった。
けれど、さっきまでよりも少しだけ、画面の中の言葉が近くに見えた。