新しい監視制御センターの構築作業は、ようやく終盤へ入っていた。
あれほどフロアを埋めていた梱包箱は、ほとんど姿を消している。
壁面には大型ディスプレイが並び、何列ものコンソール席にも機器が収まった。床を這っていたケーブルも整理され、
少し前まで倉庫だった場所は、遠目に見ればもう監視センターと呼んでも違和感がない。
ただし、見た目が完成したことと、システムが使えることは別だった。
「次、42番」
リーダーの声が飛ぶ。
「はい」
理沙は端末からテストケースを呼び出した。
疑似的な交通情報を送信する。
画面を見る。
受信。
処理。
表示。
問題なし。
結果を記録する。
「42番、正常です」
「じゃあ43」
「了解」
次のデータを流す。
また確認する。
また記録する。
その繰り返しだった。
時計を見ると、午前二時を過ぎている。
眠くはない。
ただ、目の奥が少し重かった。
テスト項目の一覧には、未完了を示す表示がまだ並んでいる。
理沙は一つ処理を終えるたび、残りの数を何となく見ていた。
昨夜より減っている。
その前の日よりも減っている。
単調な作業だったが、それだけは悪くなかった。
自分たちが一つずつ潰した項目の先に、完成が見えている。
*
明け方近くになると、さすがに身体が重くなった。
最後の確認項目を記録し、夜勤チームから昼シフトへ引き継ぐ。
「残りはここと、5番系統の再試験です」
理沙が画面を指した。
引き継ぎを受けた担当者が頷く。
「了解。こっちで見ておく」
「お願いします」
端末からログアウトする。
椅子から立つと、肩と背中が固まっていた。
理沙は両腕を上げ、大きく伸びをした。
「……疲れた」
誰にも聞こえない程度の声で呟いた。
このまま帰ってもよかった。
けれど、バスに乗る前に少し休みたかった。
二つ上の現行監視制御センターのフロアには、小さな休憩スペースがある。
コーヒーや軽食の自動販売機も置いてあった。
理沙はそこへ向かった。
*
朝の監視制御センターは、それなりに人が動いていた。
夜通し働いていた者。
これから勤務に入る者。
すでにコンソールに座っている者。
それぞれが必要な場所へ歩いていく。
フロアの端にある休憩スペースまで来ると、理沙はコーヒーの自動販売機の前で立ち止まった。
「ブラック……」
スマートフォンを取り出す。
決済センサーへ近づけた。
反応しない。
もう一度。
無反応。
「ん?」
画面を確認する。
スマートフォン側に問題はなさそうだった。
三度目。
やはり反応しない。
「故障?」
理沙は自販機の表示を見た。
エラーは出ていない。
機械の横を見ると、まだ現金投入口も残されていた。
財布から小銭を取り出す。
「まあ、いいか」
硬貨を入れる。
今度は反応した。
理沙はブラックコーヒーを選んだ。
内部で機械音がする。
紙カップが取り出し口へ落ちた。
そのあと。
何も起きなかった。
「……」
理沙は待った。
五秒。
十秒。
コーヒーは出てこない。
紙カップだけが、空のまま置かれている。
「ちょっと」
自販機を見上げる。
機械は何事もなかったかのように沈黙していた。
「お金だけ取るんだ」
理沙は小さく悪態をついた。
返金ボタンを押す。
反応なし。
「しょうがないなあ……」
故障時の連絡先を探す。
見当たらない。
施設管理へ電話すればいいのだろう。
ただ、その内線番号が分からない。
自販機の横。
壁。
休憩スペースの案内。
それらを順番に眺めていると、人の気配を感じた。
少し離れたところに、一人の女性が立っていた。
肩までのブロンドの髪。
薄いブルーのシャツ。
首から緑色のストラップでIDカードを下げている。
手には自分のカップを持っていた。
理沙と自販機を交互に見ている。
目が合った。
女性が少し笑った。
「出なかった?」
「カップだけ」
理沙が取り出し口を指した。
「ああ」
女性は納得したように頷いた。
「それ、たまにやるの」
「知ってるなら直してほしいんだけど」
理沙が言うと、女性は少し笑った。
「ほんとね」
近くの内線電話を取る。
短い番号を入力した。
「おはよう。休憩スペースのコーヒーマシン、また止まったみたい。……そう。今度はカップだけ」
理沙はその横顔を見ていた。
「うん。お願い」
電話を切る。
「施設管理の人が来るって。代金も処理してくれると思う」
「ありがとうございます」
「いいのよ」
女性は気軽に言った。
*
数分後、施設管理の担当者がやってきた。
自販機の状態を確認し、理沙の支払いを端末で処理する。
「すみません。返金しておきました」
「ありがとうございます」
理沙はスマートフォンを見る。
返金通知が表示されていた。
故障中の表示が自販機に付けられる。
理沙は隣の自販機へ移った。
今度は先に表示を確認する。
スマートフォンを当てる。
決済完了。
紙カップが落ちる。
少し間を置いて、黒い液体が注がれ始めた。
「……よし」
思わず言った。
近くにいた先ほどの女性が笑った。
「今度は出た?」
「出ました」
「よかった」
理沙は紙カップを持った。
熱い。
でも、その熱さがちょうどよかった。
女性も自分の飲み物を持ったまま、近くのテーブルへ向かった。
理沙は少し迷った。
帰ればいい。
身体はもう眠りたがっている。
それでも、何となくその場を離れる気にならなかった。
女性が振り返った。
「新センターの作業してる人ね?」
「あ、はい」
「やっぱり」
「分かるんですか?」
「最近、よく下のフロアから上がってくる人を見るから」
理沙は向かい側の椅子に座った。
「もう一か月くらいやってます」
「そんなになる?」
女性が少し驚いた顔をした。
「早いなあ」
コーヒーを一口飲む。
理沙もカップを口へ運んだ。
苦い。
でも、疲れた身体には悪くなかった。
「あたし、カーリー」
女性が言った。
「カーリー・フロレス。ここのシステム管理。もう二年くらい」
「大嶋理沙です」
「リサ?」
「そう」
「日本から?」
「うん。少し前に来たばかり」
「へえ」
カーリーはそこで妙に詳しく聞こうとはしなかった。
「ここの夜勤、大変でしょ」
「思ってたよりは」
「平気なの?」
「夜は慣れてるから」
カーリーが少し首を傾ける。
「前の仕事も夜?」
「まあ……そんな感じ」
ライブハウスのことまで説明する必要はない気がした。
カーリーも、それ以上は聞かなかった。
「新しい方、もうだいぶできてるね」
「昨日もテストばっかりでした」
「こっちでも気にしてるのよ。切り替わったら、私たちが使うことになるから」
「そうなんですか」
「うん。だから下で何やってるのか、たまに見に行きたいくらい」
「来ればいいのに」
「邪魔って言われそう」
「たぶん言われます」
カーリーが笑った。
理沙も少し笑った。
特別な話はしなかった。
仕事のこと。
ロサンゼルスのこと。
理沙がまだ街に慣れていないこと。
カーリーが交通センターで働き始めて二年になること。
そんな話だけだった。
時計を見ると、15分ほど経っていた。
「あ」
カーリーが立ち上がる。
「戻らなきゃ」
「私も帰ります」
「夜勤明け?」
「はい」
「じゃあ早く寝た方がいいよ」
「そうします」
カーリーは空になったカップを捨てた。
「またね、リサ」
一瞬だけ、理沙はその言葉を聞き返しそうになった。
「あ、うん。また」
カーリーは手を軽く上げ、そのままオペレーションルームの方へ歩いていった。
理沙はその後ろ姿を少しだけ見ていた。
*
建物を出ると、すでに朝だった。
夜中ずっと蛍光灯の下にいた目には、外の光が眩しい。
理沙は目を細めた。
バス停まで歩く。
朝の街は、これから仕事へ向かう人たちで少しずつ動き始めていた。
バスに乗る。
窓際の席へ座る。
座った途端、身体の力が抜けた。
急に眠気が来た。
目を閉じる。
すぐ眠れそうだった。
けれど、さっきのことが何となく頭に残っていた。
故障した自販機。
空の紙カップ。
その横で笑っていた女性。
カーリー。
たった十五分ほど話しただけだった。
それでも、不思議と話しにくさがなかった。
理沙は薄く目を開けた。
窓の外を、朝の街並みが流れている。
明日も同じ時間に仕事が終わる。
そういえば。
あの自販機のコーヒーを買うなら、帰る前がちょうどいい。
そんなことをぼんやり考えた。
理沙は窓に頭を預けた。
今度こそ目を閉じる。
バスの振動に揺られながら、意識はすぐに遠のいていった。
カーリーの穏やかな笑顔だけが、なぜか最後まで頭の片隅に残っていた。
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