003_07_夜勤にて(2)

 新しい監視制御センターの構築作業は、ようやく終盤へ入っていた。

 あれほどフロアを埋めていた梱包箱は、ほとんど姿を消している。

 壁面には大型ディスプレイが並び、何列ものコンソール席にも機器が収まった。床を這っていたケーブルも整理され、
 少し前まで倉庫だった場所は、遠目に見ればもう監視センターと呼んでも違和感がない。

 ただし、見た目が完成したことと、システムが使えることは別だった。

「次、42番」

 リーダーの声が飛ぶ。

「はい」

 理沙は端末からテストケースを呼び出した。

 疑似的な交通情報を送信する。

 画面を見る。

 受信。

 処理。

 表示。

 問題なし。

 結果を記録する。

「42番、正常です」

「じゃあ43」

「了解」

 次のデータを流す。

 また確認する。

 また記録する。

 その繰り返しだった。

 時計を見ると、午前二時を過ぎている。

 眠くはない。

 ただ、目の奥が少し重かった。

 テスト項目の一覧には、未完了を示す表示がまだ並んでいる。

 理沙は一つ処理を終えるたび、残りの数を何となく見ていた。

 昨夜より減っている。

 その前の日よりも減っている。

 単調な作業だったが、それだけは悪くなかった。

 自分たちが一つずつ潰した項目の先に、完成が見えている。

     *

 明け方近くになると、さすがに身体が重くなった。

 最後の確認項目を記録し、夜勤チームから昼シフトへ引き継ぐ。

「残りはここと、5番系統の再試験です」

 理沙が画面を指した。

 引き継ぎを受けた担当者が頷く。

「了解。こっちで見ておく」

「お願いします」

 端末からログアウトする。

 椅子から立つと、肩と背中が固まっていた。

 理沙は両腕を上げ、大きく伸びをした。

「……疲れた」

 誰にも聞こえない程度の声で呟いた。

 このまま帰ってもよかった。

 けれど、バスに乗る前に少し休みたかった。

 二つ上の現行監視制御センターのフロアには、小さな休憩スペースがある。

 コーヒーや軽食の自動販売機も置いてあった。

 理沙はそこへ向かった。

     *

 朝の監視制御センターは、それなりに人が動いていた。

 夜通し働いていた者。

 これから勤務に入る者。

 すでにコンソールに座っている者。

 それぞれが必要な場所へ歩いていく。

 フロアの端にある休憩スペースまで来ると、理沙はコーヒーの自動販売機の前で立ち止まった。

「ブラック……」

 スマートフォンを取り出す。

 決済センサーへ近づけた。

 反応しない。

 もう一度。

 無反応。

「ん?」

 画面を確認する。

 スマートフォン側に問題はなさそうだった。

 三度目。

 やはり反応しない。

「故障?」

 理沙は自販機の表示を見た。

 エラーは出ていない。

 機械の横を見ると、まだ現金投入口も残されていた。

 財布から小銭を取り出す。

「まあ、いいか」

 硬貨を入れる。

 今度は反応した。

 理沙はブラックコーヒーを選んだ。

 内部で機械音がする。

 紙カップが取り出し口へ落ちた。

 そのあと。

 何も起きなかった。

「……」

 理沙は待った。

 五秒。

 十秒。

 コーヒーは出てこない。

 紙カップだけが、空のまま置かれている。

「ちょっと」

 自販機を見上げる。

 機械は何事もなかったかのように沈黙していた。

「お金だけ取るんだ」

 理沙は小さく悪態をついた。

 返金ボタンを押す。

 反応なし。

「しょうがないなあ……」

 故障時の連絡先を探す。

 見当たらない。

 施設管理へ電話すればいいのだろう。

 ただ、その内線番号が分からない。

 自販機の横。

 壁。

 休憩スペースの案内。

 それらを順番に眺めていると、人の気配を感じた。

 少し離れたところに、一人の女性が立っていた。

 肩までのブロンドの髪。

 薄いブルーのシャツ。

 首から緑色のストラップでIDカードを下げている。

 手には自分のカップを持っていた。

 理沙と自販機を交互に見ている。

 目が合った。

 女性が少し笑った。

「出なかった?」

「カップだけ」

 理沙が取り出し口を指した。

「ああ」

 女性は納得したように頷いた。

「それ、たまにやるの」

「知ってるなら直してほしいんだけど」

 理沙が言うと、女性は少し笑った。

「ほんとね」

 近くの内線電話を取る。

 短い番号を入力した。

「おはよう。休憩スペースのコーヒーマシン、また止まったみたい。……そう。今度はカップだけ」

 理沙はその横顔を見ていた。

「うん。お願い」

 電話を切る。

「施設管理の人が来るって。代金も処理してくれると思う」

「ありがとうございます」

「いいのよ」

 女性は気軽に言った。

     *

 数分後、施設管理の担当者がやってきた。

 自販機の状態を確認し、理沙の支払いを端末で処理する。

「すみません。返金しておきました」

「ありがとうございます」

 理沙はスマートフォンを見る。

 返金通知が表示されていた。

 故障中の表示が自販機に付けられる。

 理沙は隣の自販機へ移った。

 今度は先に表示を確認する。

 スマートフォンを当てる。

 決済完了。

 紙カップが落ちる。

 少し間を置いて、黒い液体が注がれ始めた。

「……よし」

 思わず言った。

 近くにいた先ほどの女性が笑った。

「今度は出た?」

「出ました」

「よかった」

 理沙は紙カップを持った。

 熱い。

 でも、その熱さがちょうどよかった。

 女性も自分の飲み物を持ったまま、近くのテーブルへ向かった。

 理沙は少し迷った。

 帰ればいい。

 身体はもう眠りたがっている。

 それでも、何となくその場を離れる気にならなかった。

 女性が振り返った。

「新センターの作業してる人ね?」

「あ、はい」

「やっぱり」

「分かるんですか?」

「最近、よく下のフロアから上がってくる人を見るから」

 理沙は向かい側の椅子に座った。

「もう一か月くらいやってます」

「そんなになる?」

 女性が少し驚いた顔をした。

「早いなあ」

 コーヒーを一口飲む。

 理沙もカップを口へ運んだ。

 苦い。

 でも、疲れた身体には悪くなかった。

「あたし、カーリー」

 女性が言った。

「カーリー・フロレス。ここのシステム管理。もう二年くらい」

「大嶋理沙です」

「リサ?」

「そう」

「日本から?」

「うん。少し前に来たばかり」

「へえ」

 カーリーはそこで妙に詳しく聞こうとはしなかった。

「ここの夜勤、大変でしょ」

「思ってたよりは」

「平気なの?」

「夜は慣れてるから」

 カーリーが少し首を傾ける。

「前の仕事も夜?」

「まあ……そんな感じ」

 ライブハウスのことまで説明する必要はない気がした。

 カーリーも、それ以上は聞かなかった。

「新しい方、もうだいぶできてるね」

「昨日もテストばっかりでした」

「こっちでも気にしてるのよ。切り替わったら、私たちが使うことになるから」

「そうなんですか」

「うん。だから下で何やってるのか、たまに見に行きたいくらい」

「来ればいいのに」

「邪魔って言われそう」

「たぶん言われます」

 カーリーが笑った。

 理沙も少し笑った。

 特別な話はしなかった。

 仕事のこと。

 ロサンゼルスのこと。

 理沙がまだ街に慣れていないこと。

 カーリーが交通センターで働き始めて二年になること。

 そんな話だけだった。

 時計を見ると、15分ほど経っていた。

「あ」

 カーリーが立ち上がる。

「戻らなきゃ」

「私も帰ります」

「夜勤明け?」

「はい」

「じゃあ早く寝た方がいいよ」

「そうします」

 カーリーは空になったカップを捨てた。

「またね、リサ」

 一瞬だけ、理沙はその言葉を聞き返しそうになった。

「あ、うん。また」

 カーリーは手を軽く上げ、そのままオペレーションルームの方へ歩いていった。

 理沙はその後ろ姿を少しだけ見ていた。

     *

 建物を出ると、すでに朝だった。

 夜中ずっと蛍光灯の下にいた目には、外の光が眩しい。

 理沙は目を細めた。

 バス停まで歩く。

 朝の街は、これから仕事へ向かう人たちで少しずつ動き始めていた。

 バスに乗る。

 窓際の席へ座る。

 座った途端、身体の力が抜けた。

 急に眠気が来た。

 目を閉じる。

 すぐ眠れそうだった。

 けれど、さっきのことが何となく頭に残っていた。

 故障した自販機。

 空の紙カップ。

 その横で笑っていた女性。

 カーリー。

 たった十五分ほど話しただけだった。

 それでも、不思議と話しにくさがなかった。

 理沙は薄く目を開けた。

 窓の外を、朝の街並みが流れている。

 明日も同じ時間に仕事が終わる。

 そういえば。

 あの自販機のコーヒーを買うなら、帰る前がちょうどいい。

 そんなことをぼんやり考えた。

 理沙は窓に頭を預けた。

 今度こそ目を閉じる。

 バスの振動に揺られながら、意識はすぐに遠のいていった。

 カーリーの穏やかな笑顔だけが、なぜか最後まで頭の片隅に残っていた。