警察が阿久津と恵梨香の行方を追い始めたころ、オーナーの判断は早かった。
「Shangri-la」は、閉店する。
決定はそれだけだった。
そこから先は、迷いがなかった。
店内の資産は順次売却され、家具やインテリアは業者に引き取られていく。
営業の再開を前提とした動きではなかった。
完全な撤収だった。
フロアの照明が落とされ、ステージの機材が外される。
数日前まで人で埋まっていた空間は、急速に空洞になっていった。
キャストも、黒服も、スタッフも、同じように職を失った。
これまで守られていた生活は、店の売り上げという土台の上にあったものだった。
その土台が消えれば、何も残らない。
彩名はオーナーに掛け合った。
「せめて、1ヶ月分だけでも」
声は落ち着いていたが、言葉にはわずかに力がこもっていた。
しかし、返答は短かった。
「無理だ」
理由の説明はなかった。
それ以上の交渉も、成立しなかった。
オーナーは彩名に責任を問わなかった。
阿久津の失踪についても、何も言わない。
「起きたことは、仕方ない」
ただ、それだけだった。
そして最後に、事務的でも皮肉でもない口調で言った。
「長い間、ご苦労さま」
それで終わりだった。
彩名は、何も言い返さなかった。
店を出たあと、彼女はキャストたちを1人ずつ呼び止めた。
封筒を手渡す。
中には、最低保証分に近い額の現金が入っていた。
「とりあえず、これで」
説明はしなかった。
多くを語る必要もなかった。
それがどこから出た金なのか、理沙には分かっていた。
理沙にも同じように封筒を差し出したが、理沙は首を振った。
「私はいい」
彩名は少しだけ眉を動かした。
「昼の仕事、あるし」
理沙はそう言った。
家賃は払える。生活は、どうにかなる。
それ以上は言わなかった。
彩名も、それ以上は何も言わなかった。
しばらくして、理沙は言った。
「住むとこ、あるの?」
彩名は一瞬、答えなかった。
それで十分だった。
「うち、来れば?」
理沙は、淡々と言った。
「落ち着くまででいいから」
彩名は、少しだけ視線を落とした。
それから、短くうなずいた。
翌日の夕方。
彩名は最低限の荷物だけを持って、理沙のマンションに来た。
スーツケースが一つ。それだけだった。
部屋は広くはない。
寝室も一つしかない。
「しばらく、ここ使って」
理沙はベッドの方を指した。
彩名は「うん」とだけ答えた。
荷物を整理し、簡単に部屋を片付ける。
別な会話はなかった。
必要なことだけを、短くやり取りする。
気がつけば、時間は深夜になっていた。
2人は同じベッドに横になった。
部屋の明かりを消すと、外の街灯の光が、カーテン越しに薄く差し込む。
しばらく沈黙が続いたあとで、
彩名が言った。
「……ごめん」
それだけだった。
理沙は、何も答えなかった。
返す言葉がなかったわけではない。ただ、言わなかった。
沈黙が戻る。
やがて、彩名の気配が静かになる。
眠ったのかと思った。
そのとき、かすかな音が聞こえた。
息を押し殺すような、小さなすすり泣き。
理沙は目を閉じたまま、動かなかった。
何も言わない。
触れもしない。
ただ、その音を聞いていた。
そこにはもう、店の中で見ていた、あの彩名はいなかった。
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