VIPルームは、音を吸い込むような静けさだった。
扉の外にあるはずの喧騒は、ここには届かない。
代わりに、低く抑えられた空気だけが、ゆっくりと流れている。
彩名はソファに腰掛け、正面の男女と向かい合っていた。
隣には理沙がいる。
四人とも、目立たない服装だった。
だが、その中で一人だけ、輪郭のはっきりした存在があった。
正面の女性だった。
視線を向けているわけでもない。声を発しているわけでもない。
それでも、そこにいるだけで、空気の流れが変わる。
彩名は、その違いをすぐに理解した。
――この店は、この女のものだ。
男が、店のシステムを説明していた。
給与の形。
バックの割合。
指名の扱い。
遅刻や欠勤の規定。
言葉は整っていて、無駄がなかった。
必要なことだけを、順に並べていく。
彩名も理沙も、すでに自己紹介は終えている。
今は、ただ聞いていた。
説明が一通り終わると、間を置いて、女性が口を開いた。
「何か、聞きたいことある?」
声は柔らかかった。
だが、余白がなかった。
彩名は一瞬だけ視線を落とし、すぐに持ち上げた。
「この辺り、長いんですか?」
世間話の形を取った。
女性は小さく笑った。
「長いね」
「何年くらいですか?」
「けっこう前から」
曖昧だった。
問いを返す余地はある。
だが、そこから先に踏み込ませない形でもある。
彩名は、同じ調子でいくつか言葉を重ねた。
店のことではない話題。
客層。
時間帯。
街の雰囲気。
女性は丁寧に答えた。
言葉は崩さない。表情も、崩れない。
ただ、どこかで線を引いていた。
その線の内側には、入らせない。
視線が合った。
女性の目元が、わずかに細くなる。
笑っているように見えた。
温度はなかった。
彩名は、そのまま視線を外さなかった。
沈黙が、短く挟まる。
男が2人の間を埋めるように、軽く息を吐いた。
「じゃあ」
言葉を切り替える。
「いつから出れる?」
彩名は一瞬だけ、隣を見た。
理沙と目が合う。何も言わない。
それで十分だった。
「今日からでも」
短く答えた。
男は小さくうなずいた。
女性の方を見る。
視線を受けて、女性もわずかにうなずく。
それで決まった。
「じゃあ、あとはよろしく」
男は立ち上がり、扉の方へ向かった。
振り返らないまま、部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、小さく響いた。
残されたのは、3人だった。
女性は姿勢を変えず、言った。
「じゃあ、説明するね」
声の調子は変わらない。だが、空気は少しだけ締まった。
出勤時間。
同伴の扱い。
売上の報告。
連絡の取り方。
一つ一つを、淡々と伝えていく。
採用、という言葉は出てこなかった。
確認もなかった。
それでも、話の流れは明確だった。
もう、外には出ない。
ここで働く。
その前提で、すべてが進んでいる。
理沙は黙って聞いていた。
彩名も、言葉を挟まない。
必要なことだけを、頭に入れていく。
説明が終わる。短い間があった。
女性が、初めてはっきりと2人を見る。
「今日、出れる?」
彩名はすぐに答えた。
「はい」
女性はうなずく。
それだけだった。
了承でも、評価でもない。ただ、事実を受け取っただけの動き。
沈黙が落ちる。
彩名は、ゆっくりと口角を上げた。
視線を、まっすぐに返す。
女性の目と、正面からぶつかる。
数秒。
何も起きない。
ただ、視線だけが交差する。
先に外したのは、どちらでもなかった。
女性がわずかに息を吐いた。
それが合図のように、空気が動く。
「じゃあ、準備して」
それで終わった。
彩名は立ち上がる。理沙も、同じように動く。
扉へ向かう前に、もう一度だけ振り返った。
女性は、すでに別のことを考えている顔をしていた。
彩名は何も言わず、部屋を出た。
廊下の空気は、少しだけ軽かった。
それでも、戻ることはなかった。
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