フロアの端に立ち、阿久津は全体を見ていた。
照明の落ちた空間。
テーブルごとに分かれた光。
キャストの動きと、客の視線。
その流れの中に、彩名がいた。
指示を出し、
状況を整え、
場を保つ。
阿久津は、その後ろに立っていた。
ただ、それだけだった。
視線の先に彩名はいる。
だが、意識はしていない。
見るべきは、全体だった。
呼ばれる。
短い合図。
彩名が、わずかに顎で示す。
阿久津は頷き、フロアを横切る。
恵梨香のテーブルへ向かう。
「次、3番」
それだけを伝える。
恵梨香が顔を上げる。一瞬だけ、視線が合う。
すぐに外れる。
それだけのやり取りだった。
その時間が、残る。
いつからかは、分からなかった。
意識して始まったものではない。
積み重なったものでもない。気づけば、そこにあった。
阿久津は、これまで多くのものを見てきた。
良いものも、悪いものも、区別はしなかった。
場を収めるために必要なことだけを選び、それ以外は切り離す。
関わらない。
残さない。
それが、続けるためのやり方だった。
店の中でも同じだった。
誰かに寄らない。
誰かを特別にしない。
距離を保つ。
その方が、全体は安定する。
そう思っていた。
恵梨香は、最初から目立つ存在ではなかった。
派手さはない。
押しも強くない。
夜の世界に来た理由も、軽かった。
ただ、場に馴染んでいた。
動きに無理がない。
言葉に癖がない。
その均衡が、逆に浮いていた。
やがて、指名が増えた。
客がつく。
数字が伸びる。
理由は、はっきりしない。
阿久津は、それを見ていた。
特別だとは思わなかった。
ただ、外れない。
崩れない。
それだけだった。
変わったのは、別のところだった。
フロアから外れた時間。
控室。
出勤前。
終わった後。
誰も見ていない場所での、表情。
力の抜け方。
言葉の選び方。
一瞬の沈黙。
そこに、引っかかるものがあった。
理由は考えなかった。
考える必要もなかった。
ただ、視線が向くようになった。
均衡は、少しずつ崩れていく。
気づかない程度に。
他のキャストと同じように接する。
同じ言葉。
同じ距離。
そのつもりでいた。だが、同じではなかった。
わずかな差が、残る。
恵梨香は、それに気づいていた。
何も言わない。
ただ、視線の置き方が変わる。
一瞬、長くなる。
それだけで十分だった。
戻ることはなかった。
彩名には、いずれ知られると思っていた。
隠し続けられるものではない。それでも、止めなかった。
止める理由も、なかった。
小さな綻びだった。
最初は、それだけだった。
広がる。
時間をかけて、確実に。気づいたときには、戻せない位置にあった。
恵梨香が、彩名と話した日。そのあと、空気が変わった。
表面は変わらない。
流れも崩れない。
だが、見えないところで動き始める。
言葉は少ない。
確認もない。
それでも、方向は揃っていた。
やがて、境界がなくなる。
一線は、曖昧なまま越えられた。
止める側はいなかった。止められる側でもなかった。
そのまま、進む。
ある日、終わった。
形が崩れる。一気だった。
南米の小さな空港。
ロビーの椅子に座り、阿久津は時計を見た。
時間は合っている。
遅れはない。
人の出入りは少ない。
言葉も、聞き慣れない。ここまで、別々に来た。
経路を変え、名前を変え、繋がりを断つ。
それで、辿り着いた場所だった。
戻る場所は、もうない。
それは分かっていた。
考えるまでもなかった。
後悔は、なかった。
まだ、そこまで至っていなかった。
ただ、静かだった。
何も動かない時間の中で、阿久津は座ったまま、前を見ていた。
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