001_16_新しい店で(1)

バー「白河」の扉を開けると、いつもの匂いがした。

酒と木と、少し古い空気。

時間は深夜を過ぎていた。
客はまばらで、カウンターの奥に湯浅の姿が見える。
理沙は何も言わずに席に座った。

「久しぶり」

グラスを拭いていた手を止めずに、湯浅が言う。

「うん」

短く返す。
それだけで、会話は一度切れた。

湯浅が、いつものものを出す。
理沙は手を伸ばさず、少し遅れてグラスに触れた。
一口だけ飲む。

味は変わらなかった。

ここに来るのは、何度かあった。あの日のあとから。
山下公園で、湯浅が1人でエアギターを弾いていた夜。
あのときから、会話の内容は変わっていた。

カウンター越しに、音楽の話をする。
曲のこと。
演奏のこと。
声のこと。

湯浅は、よく笑った。

「1回、ちゃんと聴いてみたいんだよね」

そう言っていた。

店で歌う理沙の姿を、見てみたいと。

その数日後に、店はなくなった。
理沙は、そのことに触れなかった。
湯浅も、聞かなかった。

グラスの氷が、小さく鳴る。

しばらくして、理沙が口を開いた。

「店、変わった」

それだけ言う。
湯浅は、手を止めなかった。

「うん」

それだけ返す。

「Castelってとこ」

理沙は続けた。

場所のこと。店の規模。システムの違い。
言葉は整っていた。
感情は乗っていなかった。

「最初から、やり直し」

グラスの中の氷が溶けていく。

「向こうでどれだけやってても、関係ない」

誰に説明するでもない調子で言う。
湯浅は、軽くうなずいた。

「まあ、そうだよね」

それ以上は、言わない。
理沙も、続けなかった。
しばらく、音だけが残る。

グラスを置く音。
氷が触れる音。
遠くの笑い声。

「前の客は?」

湯浅が聞いた。
理沙は少しだけ考えてから、答える。

「来ないと思う」

「遠いし」

それだけ付け加える。
営業をかけていないわけではない。だが、続かない。
理由を説明するほどのことでもなかった。

「そっか」

湯浅は、それ以上踏み込まなかった。
会話は、そこで止まる。

理沙はグラスに視線を落とした。
液面がわずかに揺れている。
その揺れを、しばらく見ていた。

彩名の顔が、一瞬だけ浮かぶ。

同じ部屋で過ごす時間。同じベッド。言葉の少ない夜。
思い出しても、何も変わらなかった。

整理もされていない。
ただ、そこにあるだけだった。

理沙は顔を上げる。
湯浅は、変わらずそこにいる。

同じ距離。
同じ調子。

それが、少しだけ違って見えた。
理由は、分からなかった。

「……忙しい?」

理沙が聞く。
湯浅は少しだけ笑った。

「いつも通り」

理沙はうなずく。
それ以上は聞かない。
言うことも、特になかった。

グラスの中の氷が、また小さく鳴った。



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