001_18_新しい店で(3)

イントロは、もう流れていた。
理沙はマイクを持ったまま、わずかに息を整える。

視線の端に、湯浅の姿が残っている。
消えない。

そのまま、最初の言葉を出す。

少しだけ、震れる。音に乗せる前に、引っかかる。
一拍遅れて、声が落ち着く。
続ける。

余計なことは考えない。
歌だけを追う。

フロアのざわめきが、少しずつ引いていく。

会話の声が減る。グラスの音が遠くなる。
視線が集まる。

その中に、別の一点がある。

5メートルほど離れた席。湯浅が、1人で座っている。
黒服と何かを話している。
短く言葉を交わし、手で軽く示す。

こちらの方へ。

黒服がうなずき、離れる。
湯浅は椅子に深く腰掛けたまま、腕を組む。
視線を上げる。

そのまま、動かない。

理沙の方を、見ている。
表情は変わらない。
評価するでもなく、驚くでもなく、ただ、見ている。

理沙は、一度だけ視線を向ける。
すぐに外す。

歌に戻る。

音は崩れていない。言葉も、遅れない。
体が覚えている。

前と同じように、声が通る。
少しずつ、感覚が戻る。

客の気配が変わる。

近い席の会話は止まり、遠い席の音も小さくなる。
空間が、ひとつにまとまる。

理沙はその中で、歌っている。
外に出る感覚はなかった。ただ、音の上に立っている。
そのまま、最後まで進む。

終わりのフレーズを置く。音が切れる。
一瞬の間。
すぐに、拍手が上がる。

大きくはない。

だが、途切れない。

理沙は軽く頭を下げる。
顔を上げると、フロアの光が戻っていた。
いつもの店内に戻る。

その中で、ひとつだけ変わらないものがあった。
湯浅の視線だった。
位置も、姿勢も、変わっていない。

ただ、こちらを見ている。
理沙は、その視線を受け止めたまま、少しだけ息を吐いた。

それから、マイクを置いた。



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