001_22_言えない悩み(3)

営業が終わると、そのまま「白河」に向かった。

扉を開けると、変わらない空気がある。
音も、匂いも、温度も、同じだった。
理沙はカウンターの端に座る。

言葉は交わさない。

グラスが置かれる。それを、ゆっくりと口に運ぶ。

店の中は静かだった。
数人の客が、間を空けて座っている。
その少し離れた位置に、湯浅がいた。

いつもの場所。いつもの距離。
こちらを見ているわけでもない。
ただ、そこにいる。

理沙は、視線を落としたまま飲む。

体の力が抜けていく。
店にいる間の緊張が、少しずつほどける。

ここでは、何も求められない。何も整えなくていい。
それだけで、十分だった。

時間が過ぎる。
グラスの中の氷が減っていく。

理沙は、それを見ていた。思考はまとまらない。
何を考えているのかも、はっきりしない。
ただ、止まっている。

足音が近づく。
隣に、影が落ちる。
理沙は顔を上げなかった。

「……さっきのさ」

湯浅の声だった。

低く、いつも通りの調子。

「店で歌ってるときの」

少しだけ間がある。
理沙はグラスを置く。音が、小さく響く。

「あの、生きてる感じ」

言葉を選ぶように言う。

「どこいったのかなって」

それだけだった。

評価でも、批判でもない。
ただの疑問の形をしている。

理沙は、ゆっくりと顔を上げた。

湯浅を見る。
距離は変わらない。

表情も、変わらない。ただ、目だけがこちらを見ている。
しばらく、何も言わなかった。
言葉が出ないわけではない。
出さなかった。

そのまま、見ている。

時間が、少しだけ伸びる。
店の音が遠くなる。
さっきまでの自分が、頭の中に浮かぶ。

ステージの上。
声を出していた時間。
視線が集まる感覚。

それが、今の自分と繋がらない。その違和感だけが、残っていた。

理沙は、湯浅から目を逸らさなかった。
そのまま、見続ける。
何かを探すように。

湯浅が、わずかに笑う。変わらない笑い方だった。
理沙は、そのまま見ていた。
その表情を、逃さないように。
何も言わないまま、時間が過ぎる。

やがて、理沙は小さく息を吐いた。
それが、少しだけ深かった。



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