音が、静かに広がる。
理沙の声が、店内に落ちていく。
高くもなく、強くもない。それでも、外れない。
輪郭がはっきりしている。
照明の下で、理沙はゆっくりと歩く。
足音は消えている。動きだけが、残る。
客席を見渡す。
視線を合わせる。
手を伸ばす。
その一つ一つが、流れを崩さない。
「Vanishing」
何度も歌っているはずの曲だった。
だが、同じにはならない。
声の抜け方が、少し変わっている。
間の置き方が、ずれている。
わずかな違いが、全体を変える。
店の空気が、それに合わせて動く。
会話の量が減る。グラスを置く音が遅くなる。
理沙の声に、引き寄せられる。
ステージの上で、理沙はそれを感じていた。
コントロールしているわけではない。
だが、外れてもいない。その中に、立っている。
視線を動かす。
フロアの奥。少し離れたボックス席。
そこに、彩名がいた。
動かない。姿勢も変えない。
ただ、こちらを見ている。
他の客と話しているわけでもない。グラスにも手を伸ばさない。
視線だけが、残っている。
理沙は、その視線を受ける。
一瞬だけ。
時間が、わずかにずれる。
音の流れが、揺れる。
次の言葉が、遅れる。
ほんの一拍。それだけだった。
すぐに戻す。
声は崩れない。音に乗る。
だが、さっきまでとは少し違う。
意識が、一点に残る。
彩名の視線。そこから外れないまま、歌が進む。
理沙は、視線を切らなかった。
逃げることはできた。
外すこともできた。
それは選ばなかった。
そのまま、受けた。
言葉を置く。
音に乗せる。流れは戻る。
空気も、元に戻る。
だが、ひとつだけ残る。
視線の重さだった。
理沙は、それを抱えたまま、最後のフレーズを歌った。
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