5月の終わりに近づくころには、東京の昼間はもう夏のようだった。
昼休みに外へ出れば、アスファルトの照り返しで息が詰まりそうになる。
信号待ちの人々は、まだ夏服になりきれない服装のまま、額に汗を浮かべていた。
それに比べると、理沙が勤めるシステム会社のオフィスは、季節に関係なく静かで、涼しかった。
空調の低い音。
キーボードを叩く乾いた音。
誰かが小さく咳をする音。
そのすべてが、午後を迎える前の白い照明の下で、薄く混ざっていた。
「Castel」を辞めてから、3か月が経っていた。
夜の仕事がなくなった分、毎月の収入は半分以下になった。通帳の数字は、前よりも明らかに減る速度を上げている。
それでも、「Shangri-la」と「Castel」で働いていたあいだに貯めた金が、まだ少し残っていた。贅沢をしなければ、しばらくはなんとかなる。
そう思えるだけ、まだましだった。
クリスマスの夜の、あのサプライズライブからも、もう半年近くになる。
あの日、歌い終えた理沙は、湯浅と、彼のバンド仲間だったフィリップ・ウィルコックス、島崎勝昭と意気投合した。終電の時間は誰も気にしなかった。
始発までの時間を埋めるように、4人は同じ話を何度もして、何度も笑った。
あの夜は、本当に何かが始まるような気がしていた。
実際、始まりはした。
湯浅がギターを弾き、フィリップがベースを弾き、島崎がドラムを叩く。理沙はその真ん中で歌った。
バンド名は、いつの間にか「Arisa-Misty」になっていた。
けれど、現実は思ったほど軽くはなかった。
ライブは月に一度。
配信サイトに上げた曲は、いくつかある。
再生数も、ダウンロード数も、悪くはない。けれど、どこかへ届いていると実感できるほどではなかった。
フォロワー数は、増えているのか、止まっているのか分からないくらいの速度で、少しずつ動いていた。
昼の仕事の休憩時間に、理沙はたまに配信サイトの管理画面を開く。
数字を見る。
しばらく眺める。
ため息をつく。
そして、閉じる。
それでも、バンドの空気は悪くなかった。
フィリップは、ベースの腕だけなら誰にも負けないと言い切れるほど上手かった。リズムに乗ると、指先だけで空気を引っ張っていくようなところがある。
ただし、女癖はよくなかった。
ライブハウスで演奏が終わり、片づけをしていたはずなのに、気づけばドリンクコーナーの女性スタッフに笑顔で話しかけている。
肩の力を抜いた立ち方も、相手の顔をのぞき込む仕草も、やけに手慣れていた。
一度、理沙は見かねて声をかけた。
「フィリップ。仕事中に何してるの」
自分でも少しきついと思う言い方だった。
言ったあとで、怒られるかもしれないと思った。
けれどフィリップは、急に背筋を伸ばした。
「……はい」
まるで母親に叱られた子供のような顔だった。
理沙は、少し拍子抜けした。
一方の島崎は、おっとりしているようで、意外と口論に強かった。
普段は眠そうな顔で、言葉を引きずるように話している。けれど、フィリップとぶつかると急に早口になる。
しかも、なぜか2人とも英語になる。
「ちょっと待って。日本語でやって」
理沙が間に入ると、2人は一瞬だけ黙る。
それから、どちらともなく視線をそらす。
数分後には、何事もなかったように肩を並べて機材を運んでいた。
癖のある人間ばかりだった。
たぶん、自分もその一人なのだろうと、理沙は思っている。
ただ、バンドのこれからについては、誰もはっきりした答えを持っていなかった。
続ける。
曲を作る。
ライブをする。
配信する。
それで、その先に何があるのか。
4人とも、そこだけは言葉にできないままだった。
そのメッセージが届いたのは、そんなことをぼんやり考えながら、理沙がオフィスで淡々と作業をしていたときだった。
机の端に置いたスマホが、小さく震えた。
音楽配信用サイトに届いたダイレクトメッセージが、理沙のスマホにも転送されていた。
理沙は、何気なく通知を開いた。
<はじめまして。「HALUCA」の小川と申します>
その一行を見た瞬間、胸の奥にあったもやもやが、ふっと風にさらわれたような気がした。
音楽事務所。
スカウト。
そんな言葉が、まだ読んでもいない先へ、勝手に走っていく。
理沙は、スマホを持つ指に少しだけ力を入れた。
小川という人物は、ライブ映像を見たこと、配信サイトに登録されているいくつかの曲を聴いたこと、そしてその感想を短く書いていた。
文章は丁寧だった。
妙に大げさではない。
逆に、それが少し気になった。
<どこかでお会いして、お話したいのですが、可能でしょうか?>
理沙は、その一文を何度も読み返した。
画面の光が、オフィスの白い照明の下で少し浮いて見えた。
すると、湯浅からメッセージが入った。
<小川って人のメッセージ、見た?>
理沙は反射的に返した。
<見た>
<どう思う?>
<まだ分からない>
すぐに、フィリップが割り込んできた。
<ついに来た? Big chance?>
島崎も続いた。
<待って。今、会社調べる>
理沙は、パソコンの画面に開いたままの作業ウィンドウを見た。
昼の仕事は、当然ながら終わっていない。
けれど意識は、もうスマホの中に引っ張られていた。
<HALUCA? 聞いたことないな>
湯浅が送ってきた。
<音楽事務所らしいけど、小さい。設立してまだそんな経ってない>
島崎の返事は早かった。
<社員数の記載なし。社長は柴原勝。前職は金融っぽい>
フィリップがすぐに反応した。
<金融? MusicじゃなくてMoney?>
<うるさい>
島崎が返す。
<でも実在はしてる。住所もある>
理沙は少し考えてから打った。
<それ、逆に怖くない?>
フィリップが、妙に楽しそうに返してくる。
<犯罪組織?>
湯浅が続けた。
<人身売買とか>
そのあとに、すぐ別の一文が来る。
<笑いごとちゃうやろ>
その言葉で、理沙は少し冷静になった。
たしかに、この手の話はいくらでもある。
夢を見たい人間に近づき、もっともらしい言葉で釣る。音楽でも、芸能でも、夜の世界でも、似たような話はいくつも見てきた。
理沙は、もう一度小川のメッセージを読み返した。
丁寧だった。
怪しさはない。
けれど、怪しくないことと、信じていいことは違う。
気がつけば、最初の通知から30分以上が経っていた。オフィスの時計は、もう昼休みに近い時刻を指している。
湯浅から、最後に短いメッセージが来た。
<それで、理沙はどうする?>
理沙は少し考えてから、画面に指を置いた。
<返事は、まだしない>
送信してから、続けて打つ。
<少し様子を見る>
それだけ送ると、理沙はスマホを伏せた。
オフィスの空調の音が、また耳に戻ってきた。
画面の向こうにあった熱が、ゆっくり遠ざかっていく。
理沙は深く息を吐き、途中で止まっていた仕事の画面に目を戻した。
カーソルだけが、白い入力欄の端で点滅している。
さっきより、少しだけ速く見えた。
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