002_02_夜空を見上げる

5月になると、夜明けはずいぶん早くなる。

それでも、片岡まりあが勤務先のビルを出たころ、空にはまだ夜の暗さが残っていた。
街灯の光は白く、道路には夜勤明けの人間だけが知っている、薄い静けさがあった。
ふと見上げると、ビルの隙間の向こう、遠くの東の空だけが、かすかに紫色になりかけていた。

「もう朝だね」

隣を歩いていた後輩が、眠そうな声で言った。

「うん」

まりあは、短く答えた。

2人とも、ほとんど言葉が出なかった。夜勤明けの体には、会話を続けるだけの余力が残っていない。
それでも、駅の近くの定食屋に入るところまでは、いつもの流れだった。夜勤明けの客が何人か、同じような顔でテーブルについている。

まりあと後輩は壁際の席に座り、いつもの定食を注文した。
味噌汁の湯気が、目の前でゆっくり揺れていた。
食べながらも、まりあの頭の中には、さっきまで見ていた監視画面の残像が残っていた。

夜中に鳴ったアラート。
フロアの空気が一瞬で変わったこと。
リーダーの短い指示。
バックアップセンターへの切り替え。
止まりかけたサービスを、どうにかつなぎ止めるために打ち込んだコマンド。

切り替えそのものは、十数分で終わった。
けれど、そのあとが長かった。
ログを追い、関係先へ連絡し、復旧手順を確認し、朝のシフトに引き継ぐ。
最後に自分の名前を記録欄に入力したとき、まりあは、指先が少し震えていることに気づいた。

朝になるころには、街は何事もなかったように動き始めていた。

電車は動く。
決済も通る。
誰かの予約も、誰かの通話も、たぶん普通に続いている。

まりあたちが一晩中見ていた赤い警告表示のことなど、外の人たちは知らない。
知らなくていい。
そういう仕事なのだと思う。

定食を食べ終えるころには、少しだけ体に力が戻っていた。

「帰ったら、寝る」

後輩が言った。

「私も」

まりあは笑った。

朝の通勤客とは反対方向の電車は、空いていた。車窓の外では、眠っていた街が少しずつ明るくなっていく。
座席に腰を下ろすと、まぶたが重くなった。
自宅のワンルームマンションに帰り着くと、まりあは靴を脱ぐのも少し面倒に感じた。それでも何とか部屋に入り、パジャマに着替え、ベッドに倒れ込む。

枕元には、母親の写真が置いてある。
古い写真だった。写真の中の母は、まりあが覚えているよりも少し若く、少し明るく笑っていた。

ただいま。

声には出さず、まりあは目だけでそう言った。
それから横になり、すぐに意識が遠のいていった。

単調な毎日だった。

夜に働き、朝に帰る。
人が眠っている時間に、止まってはいけないものを見張る。
何かが起きれば対応し、何も起きなければ、何も起きなかったことになる。

けれど、そういう毎日の中で、まりあは時々、言葉を拾った。

駅までの道。
明け方の空。
誰もいないホーム。
夜勤明けの定食屋。
母の写真の横で眠りに落ちる前の、ほんの数秒。

思いついた言葉は、すぐスマホに残す。
忘れたくないからではない。
書かないと、胸の奥にたまったものが、そのまま沈んでいってしまいそうだからだった。

眠る直前、まりあはスマホを手に取った。
画面のメモアプリを開き、ぼんやりした指で文字を打つ。

<無理しなくていい。。。。>

少しだけ、息が楽になった。
続けて、もう一行を打つ。

<今日の私たちは、ちゃんと頑張ったでしょう>

文字にしてみると、誰かに言われたかった言葉のようにも見えた。
自分で自分に言っているだけなのに、不思議と悪くなかった。
まりあはスマホを枕元に置き、目を閉じた。

次に目を覚ましたとき、時計は正午近くを指していた。
今日は夜勤から昼勤へのシフト切り替え日で、休みだった。
体はまだ重い。けれど、眠る前に胸の中にあった黒いものは、少し薄くなっていた。

まりあは起き上がり、カーテンを開けた。
窓を開けると、熱い風が部屋に入り込んできた。まだ5月なのに、外はもう夏のようだった。

遠くで電車が走る音がする。
道路を行き交う車の音。
どこかの部屋で鳴っている生活音。

まりあは窓を開けたまま、簡単な食事を用意した。

パンと卵。
紙パックのオレンジジュース。
昨日買ったままのサラダ。

テーブルの上にスマホを置き、食べながら配信サイトを開く。

自分のショップページ。
自分で作った曲。
自宅で録った歌。
動画の背景や服装だけを少し加工した、手作りの映像。

お小遣い程度になればいいと思って始めたものだった。
それ以上を期待していなかったと言えば、嘘になる。
けれど今日も、ダウンロード数はほとんど動いていなかった。
まりあはスマホをテーブルに伏せ、パンをかじった。

そのとき、スマホが小さく鳴った。
ダウンロードサイトに届いたダイレクトメッセージが、スマホに転送されていた。
まりあは、画面をちらりと見た。

<はじめまして。「HALUCA」の小川と申します>

なんだ……。

最初に浮かんだのは、それだった。
この手のメッセージには、何度か覚えがある。聞いたことのない事務所。聞いたことのない担当者。少し褒めて、会いたいと言う。
そのあとに何が続くかは、だいたい想像がつく。

まりあは、最初の数行だけ読んで、スマホから目を離した。

冷めかけた卵を口に運ぶ。
オレンジジュースを飲む。
食事を終える。

それから、紙パックを持ったまま窓際に移動した。床に座り、あぐらをかいて、外の明るさに目を細める。
少ししてから、まりあはもう一度スマホを手に取った。

小川という人物からのメッセージを、最初から読み直す。
そこには、まりあが作った曲についての感想が書かれていた。
歌声がどうだとか、売れそうだとか、そういう言葉ではなかった。

夜勤明けの空気。
歌詞の中に出てくる、明け方の色。
疲れた人が、自分を責めないようにするための言葉。
曲の中にある、ほんの小さな場面。

小川という人は、曲そのものよりも、その曲が生まれた場所を見ているようだった。
まりあは、画面を持つ手を少し止めた。

変な人だな、と思った。
けれど、悪い感じはしなかった。
メッセージの最後には、短くこう書かれていた。

<直接お会いして、お話がしたいと思っていますが、可能でしょうか?>

まりあは、ゆっくりと息を吸った。

窓の外は、もう完全な昼だった。夜勤明けに見上げた、あの紫色の空はどこにもない。
それでも、朝になる直前の暗さだけは、まだ体のどこかに残っている気がした。

まりあはすぐには返信しなかった。
スマホの画面を消さないまま、膝の上に置く。
そして、しばらくのあいだ、開け放した窓の向こうを見ていた。



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