空港を出たバスは、強い日差しの中を市街地へ向かって走っていた。
窓の外には、背の低い建物と、道路沿いに並ぶヤシの木。乾いた青空の下を、何車線もある道路がどこまでも続いている。
理沙は窓際の席から、それをぼんやりと眺めていた。
東京を発ってから、まだそれほど時間が経ったような気がしない。
それでも、ここには見慣れたものが何ひとつなかった。
バスを降りると、肩に掛けたバッグを持ち直した。
空気は暑い。
ただ、東京の夏のように肌へまとわりつく暑さとは少し違う。日差しは容赦なく強いのに、空は妙に高く感じられた。
通りの向こうを見れば、それだけで少し観光客のような気分になる。
「……その前に、寝るところか」
小さく呟いて、理沙は歩き出した。
渡米前に予約しておいたホテルは、バス停から十数分ほどの場所にあった。
安い。
それでも周辺の治安や口コミを調べて、最低限安心できそうなところを選んである。
フロントに着くと、まず予約が本当に入っているかを確かめた。
名前を告げる。
受付の女性が端末を操作する間、理沙は何となくカウンターの上を指先でなぞった。
ほんの数秒だったが、妙に長く感じた。
「ありますよ。6泊ですね」
「ああ……よかった」
思わず日本語が漏れた。
鍵を受け取って部屋に入り、ベッドの上にバッグを置く。
それだけで肩から力が抜けた。
少なくとも、今夜眠る場所はある。
窓の外はまだ明るかった。
理沙は少し休んでから、ホテルの周囲を歩いてみることにした。
通りには観光客らしい人影も多かった。
カフェのテラス。派手な看板。通り過ぎていくオープンカー。道端で演奏する若者。その横を、買い物袋を抱えた家族が歩いている。
写真で見ていたロサンゼルスと、それほど違わない。
けれど、一つ角を曲がると空気が変わった。
シャッターの下りた店先で眠っている男がいる。
荷物を積み上げたカートを押しながら、黙って歩いていく女性がいる。
路地の入口では、壁にもたれていた若い男が、理沙の姿を目だけで追っていた。
理沙はそのまま歩調を変えなかった。
ただ、次の交差点で道路を渡った。
しばらくして、小さな日用品店に入った。
水と簡単な食料。
それから、レジ脇の棚に並んでいた携帯用の護身スプレーを一つ手に取った。
ロサンゼルスに来て、自分のために買った最初の物らしい物だった。
*
翌日から、部屋探しを始めた。
渡米する前から候補はいくつか絞っていた。
だから、すぐに決まるだろうと思っていた。
そうでもなかった。
一軒目は写真よりかなり古かった。
二軒目は家賃こそ安かったが、窓の外をほとんど日の当たらない壁が塞いでいた。
三軒目は条件がよかったものの、契約の話になると、こちらの滞在歴や仕事について細かく聞かれた。
まだ仕事は決まっていない。
その一言を口にすると、相手の表情がほんの少し変わった。
4日目。
5日目。
ホテルへ戻るたび、理沙はベッドの上に資料を広げた。
東京なら、ここまで苦労しただろうか。
そんなことを考えても仕方がない。
6日目。
ようやく、小さなアパートの契約書に名前を書いた。
特別な部屋ではなかった。
ワンルーム。
ベッドと小さなテーブルを置けば、それだけでかなり狭くなる。
簡素なキッチンが壁際にあり、その反対側にクローゼット。バスルームも最低限の広さしかない。
それでも、ホテルの部屋とは違った。
鍵を閉める。
室内を見回す。
理沙は荷物を床へ置くと、そのままベッドに仰向けになった。
「……ふう」
天井が近く感じる。
目を閉じた。
静かだった。
廊下を誰かが歩く音もするし、遠くでは車の音もしている。
それでも、ホテルとは違う。
ここでは誰かが部屋を掃除しに入ってくることもない。
毎晩、受付を通る必要もない。
ほんの少しだけ、自分の場所になった気がした。
*
夕方、近くのスーパーへ行った。
野菜と肉、それにパンを少し買った。
調味料も最低限しかない。
狭いキッチンで、フライパン一つを使って適当に炒める。
立派な料理にはならなかった。
皿に盛り、小さなテーブルに座る。
一口食べる。
「……おいしい」
理沙はもう一口食べた。
ホテルのレストランで食べたものよりも、近所の店で注文したものよりも、なぜかずっとおいしく感じた。
誰かに作ってもらったわけでもない。
盛り付けも雑だった。
それなのに、食べているうちに少しだけ頬が緩んだ。
窓の外が暗くなり始めた。
*
夜になると、部屋は蒸し暑くなった。
空調を入れてみたものの、期待したほど冷えない。
「暑いな……」
理沙は窓を開けた。
途端に、生ぬるい風が顔に当たった。
「うわ」
思わず顔をしかめる。
窓のすぐ向こう、別の建物の壁際に、大きな空調設備が並んでいた。
いくつものファンが回っている。
低い唸り音が絶えず響いていた。
「なるほどね」
窓を少しだけ閉める。
その隙間から、遠くを見た。
建物の向こう、丘の斜面に灯りが点々と連なっている。
昼間には気づかなかった。
高級住宅地なのだろう。
大きな窓。
広い部屋。
よく冷えた空調。
庭にはプールくらいあるのかもしれない。
そんな暮らしを勝手に想像してみた。
しばらく眺めていたが、理沙は笑うでもなく、ため息をつくでもなく、窓を閉めた。
シャワーを浴びた。
濡れた髪のまま部屋へ戻ると、さっきより少しだけ涼しく感じた。
ベッドに腰を下ろす。
今日から、ここで暮らす。
そのことについて何か考えようとした。
けれど、頭がうまく働かなかった。
身体を横にする。
枕に頭を乗せた。
遠くで車の音がしていた。
空調設備の低い唸りも、壁越しにかすかに聞こえる。
その向こうでは、丘の上の灯りがまだ瞬いているはずだった。
理沙はもう一度起き上がって確かめることもなく、そのまま目を閉じた。
疲れと、わずかな安心感に身体を預けるように。
いつの間にか、眠りについていた。
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