003_01_生活の拠点

 空港を出たバスは、強い日差しの中を市街地へ向かって走っていた。

 窓の外には、背の低い建物と、道路沿いに並ぶヤシの木。乾いた青空の下を、何車線もある道路がどこまでも続いている。

 理沙は窓際の席から、それをぼんやりと眺めていた。

 東京を発ってから、まだそれほど時間が経ったような気がしない。

 それでも、ここには見慣れたものが何ひとつなかった。

 バスを降りると、肩に掛けたバッグを持ち直した。

 空気は暑い。

 ただ、東京の夏のように肌へまとわりつく暑さとは少し違う。日差しは容赦なく強いのに、空は妙に高く感じられた。

 通りの向こうを見れば、それだけで少し観光客のような気分になる。

「……その前に、寝るところか」

 小さく呟いて、理沙は歩き出した。

 渡米前に予約しておいたホテルは、バス停から十数分ほどの場所にあった。

 安い。

 それでも周辺の治安や口コミを調べて、最低限安心できそうなところを選んである。

 フロントに着くと、まず予約が本当に入っているかを確かめた。

 名前を告げる。

 受付の女性が端末を操作する間、理沙は何となくカウンターの上を指先でなぞった。

 ほんの数秒だったが、妙に長く感じた。

「ありますよ。6泊ですね」

「ああ……よかった」

 思わず日本語が漏れた。

 鍵を受け取って部屋に入り、ベッドの上にバッグを置く。

 それだけで肩から力が抜けた。

 少なくとも、今夜眠る場所はある。

 窓の外はまだ明るかった。

 理沙は少し休んでから、ホテルの周囲を歩いてみることにした。

 通りには観光客らしい人影も多かった。

 カフェのテラス。派手な看板。通り過ぎていくオープンカー。道端で演奏する若者。その横を、買い物袋を抱えた家族が歩いている。

 写真で見ていたロサンゼルスと、それほど違わない。

 けれど、一つ角を曲がると空気が変わった。

 シャッターの下りた店先で眠っている男がいる。

 荷物を積み上げたカートを押しながら、黙って歩いていく女性がいる。

 路地の入口では、壁にもたれていた若い男が、理沙の姿を目だけで追っていた。

 理沙はそのまま歩調を変えなかった。

 ただ、次の交差点で道路を渡った。

 しばらくして、小さな日用品店に入った。

 水と簡単な食料。

 それから、レジ脇の棚に並んでいた携帯用の護身スプレーを一つ手に取った。

 ロサンゼルスに来て、自分のために買った最初の物らしい物だった。

     *

 翌日から、部屋探しを始めた。

 渡米する前から候補はいくつか絞っていた。

 だから、すぐに決まるだろうと思っていた。

 そうでもなかった。

 一軒目は写真よりかなり古かった。

 二軒目は家賃こそ安かったが、窓の外をほとんど日の当たらない壁が塞いでいた。

 三軒目は条件がよかったものの、契約の話になると、こちらの滞在歴や仕事について細かく聞かれた。

 まだ仕事は決まっていない。

 その一言を口にすると、相手の表情がほんの少し変わった。

 4日目。

 5日目。

 ホテルへ戻るたび、理沙はベッドの上に資料を広げた。

 東京なら、ここまで苦労しただろうか。

 そんなことを考えても仕方がない。

 6日目。

 ようやく、小さなアパートの契約書に名前を書いた。

 特別な部屋ではなかった。

 ワンルーム。

 ベッドと小さなテーブルを置けば、それだけでかなり狭くなる。

 簡素なキッチンが壁際にあり、その反対側にクローゼット。バスルームも最低限の広さしかない。

 それでも、ホテルの部屋とは違った。

 鍵を閉める。

 室内を見回す。

 理沙は荷物を床へ置くと、そのままベッドに仰向けになった。

「……ふう」

 天井が近く感じる。

 目を閉じた。

 静かだった。

 廊下を誰かが歩く音もするし、遠くでは車の音もしている。

 それでも、ホテルとは違う。

 ここでは誰かが部屋を掃除しに入ってくることもない。

 毎晩、受付を通る必要もない。

 ほんの少しだけ、自分の場所になった気がした。

     *

 夕方、近くのスーパーへ行った。

 野菜と肉、それにパンを少し買った。

 調味料も最低限しかない。

 狭いキッチンで、フライパン一つを使って適当に炒める。

 立派な料理にはならなかった。

 皿に盛り、小さなテーブルに座る。

 一口食べる。

「……おいしい」

 理沙はもう一口食べた。

 ホテルのレストランで食べたものよりも、近所の店で注文したものよりも、なぜかずっとおいしく感じた。

 誰かに作ってもらったわけでもない。

 盛り付けも雑だった。

 それなのに、食べているうちに少しだけ頬が緩んだ。

 窓の外が暗くなり始めた。

     *

 夜になると、部屋は蒸し暑くなった。

 空調を入れてみたものの、期待したほど冷えない。

「暑いな……」

 理沙は窓を開けた。

 途端に、生ぬるい風が顔に当たった。

「うわ」

 思わず顔をしかめる。

 窓のすぐ向こう、別の建物の壁際に、大きな空調設備が並んでいた。

 いくつものファンが回っている。

 低い唸り音が絶えず響いていた。

「なるほどね」

 窓を少しだけ閉める。

 その隙間から、遠くを見た。

 建物の向こう、丘の斜面に灯りが点々と連なっている。

 昼間には気づかなかった。

 高級住宅地なのだろう。

 大きな窓。

 広い部屋。

 よく冷えた空調。

 庭にはプールくらいあるのかもしれない。

 そんな暮らしを勝手に想像してみた。

 しばらく眺めていたが、理沙は笑うでもなく、ため息をつくでもなく、窓を閉めた。

 シャワーを浴びた。

 濡れた髪のまま部屋へ戻ると、さっきより少しだけ涼しく感じた。

 ベッドに腰を下ろす。

 今日から、ここで暮らす。

 そのことについて何か考えようとした。

 けれど、頭がうまく働かなかった。

 身体を横にする。

 枕に頭を乗せた。

 遠くで車の音がしていた。

 空調設備の低い唸りも、壁越しにかすかに聞こえる。

 その向こうでは、丘の上の灯りがまだ瞬いているはずだった。

 理沙はもう一度起き上がって確かめることもなく、そのまま目を閉じた。

 疲れと、わずかな安心感に身体を預けるように。

 いつの間にか、眠りについていた。



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