ロサンゼルスへ来て、半月ほどが過ぎた。
時差にも慣れた。
近所のスーパーがどこにあるのかも、安く食材を買える店も分かってきた。バスの乗り方にも、もう迷わない。
小さな部屋にも、いつの間にか生活の形ができていた。
次は仕事だった。
とはいえ、街を歩き回って求人広告を探すような時代ではない。
朝食を済ませると、理沙は小さなテーブルにスマートフォンを置いた。
画面には求人情報が並んでいる。
システム開発。
運用監視。
テクニカルサポート。
データ管理。
東京で働いていたころの経験が使えそうなものを見つけては、応募する。
学歴。
職歴。
保有スキル。
滞在資格。
希望勤務条件。
似たような項目を何度も入力した。
送信。
次。
また送信。
一時間ほどすると、最初の返事が届いた。
理沙は画面を開いた。
短い文章だった。
今回は採用選考を進めない。
それだけだった。
「早いね」
思わず呟いた。
人事担当者が理沙の経歴を読んだとは思えない。
条件を照合し、採用候補になるかどうかをシステムが判断する。
その程度の仕組みなら、理沙にもよく分かっていた。
むしろ以前は、そうした仕組みを作る側に近いところにいた。
今は、自分がその画面の向こう側で選別されている。
少しだけ可笑しかった。
笑えるほどではなかったが。
理沙は不採用通知を閉じ、次の求人情報を開いた。
*
数日間、似たようなことを繰り返した。
応募する。
待つ。
断られる。
時には翌日まで返事がなく、少し期待する。
そして断られる。
面談の日程について聞かれたことは、まだ一度もなかった。
「まあ……そのうちね」
誰に言うでもなく、そう言ってみる。
そうでもしなければ、一日中この部屋で画面を見続けることになりそうだった。
その日はスマートフォンをポケットへ入れ、外へ出た。
*
サンタモニカの海は、写真で見るよりずっと明るかった。
白い砂浜。
強い日差し。
青い海の上を、光が細かく跳ねている。
潮風に髪を揺らされながら、理沙はしばらく海を眺めていた。
ここまで来たのだから、とスマートフォンを取り出す。
海を背にして、自分の姿を画面に収めた。
一枚。
少し角度を変えて、もう一枚。
「観光客だね」
自分で言って、少し笑った。
その日は海岸沿いを長く歩いた。
別の日にはユニバーサルスタジオの周辺を歩き、いかにもそれらしい場所で写真を撮った。
ビバリーヒルズでは、高級店のショーウインドウを眺めた。
中へ入ってみようかと思った店もあった。
値札を見て、やめた。
ドジャー・スタジアムにも行った。
入り口近くまで行き、当日のチケット料金を確認する。
理沙は数秒だけ画面を眺めた。
「……うん」
スマートフォンを閉じた。
球場を背景に写真だけ撮った。
*
撮った写真は、その日のうちに日本へ送った。
湯浅。
フィリップ。
島崎。
そして直子。
反応はすぐに返ってきた。
海がきれいだ。
楽しそうだ。
ロサンゼルスを満喫しているらしい。
土産を忘れるな。
どれも予想できそうな言葉だった。
理沙はベッドに腰掛けながら、それらを眺めた。
「まあ、そんなものか」
口元が少し緩んだ。
こちらも、わざわざ説明する必要はない。
ビバリーヒルズでは何一つ買っていない。
球場にも入っていない。
昼食代を節約するため、水と簡単なものをバッグに入れて歩いていたことも。
写真には写らない。
それでいい気がした。
*
帰宅したころには、両脚が重くなっていた。
歩きすぎたせいか、ふくらはぎが張っている。
日差しの中を長時間歩いたせいで、頭も少しぼんやりしていた。
「さすがに暑かった……」
シャワーを浴び、冷たい水を首筋に当てる。
ようやく身体の熱が引いた。
簡単な食事を作って食べた。
食器を片づけると、もう何かをする気にはなれなかった。
ベッドに横になる。
昼間の青い海が、遠いもののように感じられた。
手元のスマートフォンを何となく操作する。
送信履歴には、今日の写真が並んでいる。
理沙は少し迷ってから、別の名前を呼び出した。
小川美奈。
画面に名前が表示された。
送信する写真を選ぶ。
サンタモニカの海を背に撮った一枚。
あとは短い言葉を添えるだけだった。
元気にしています。
そんな一言でいい。
親指が入力欄の上で止まった。
しばらく、そのまま画面を見ていた。
やがて写真の選択を解除した。
文章も入力しなかった。
理沙は静かに画面を閉じ、スマートフォンを枕元へ置いた。
理由については考えなかった。
*
仰向けになって天井を見る。
古いクロスはところどころ色が変わっていた。
部屋の隅では、細い亀裂から壁紙が少し浮いている。
「あれ、自分で直せるかな」
仕事が決まっていないことよりも、どうでもいいことが口から出た。
脚はまだ重かった。
スマートフォンには、新しい連絡は来ていない。
明日の朝になれば、また求人情報を開くだろう。
また応募する。
また断られるかもしれない。
それでも今のところ、他にすることもなかった。
「さて……明日はどうしようか」
理沙は天井を見たまま呟いた。
剥がれかけたクロスの影が、空調の風でかすかに揺れている。
昼間の海も、華やかな街並みも、もうそこにはなかった。
理沙は目を閉じた。
観光客でいられる時間は、少しずつ短くなっていた。
そんなことをまだはっきりとは考えないまま、理沙の意識はゆっくりと遠のいていった。
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