003_02_観光客気分のまま

 ロサンゼルスへ来て、半月ほどが過ぎた。

 時差にも慣れた。
 近所のスーパーがどこにあるのかも、安く食材を買える店も分かってきた。バスの乗り方にも、もう迷わない。

 小さな部屋にも、いつの間にか生活の形ができていた。

 次は仕事だった。

 とはいえ、街を歩き回って求人広告を探すような時代ではない。

 朝食を済ませると、理沙は小さなテーブルにスマートフォンを置いた。

 画面には求人情報が並んでいる。

 システム開発。
 運用監視。
 テクニカルサポート。
 データ管理。

 東京で働いていたころの経験が使えそうなものを見つけては、応募する。

 学歴。

 職歴。

 保有スキル。

 滞在資格。

 希望勤務条件。

 似たような項目を何度も入力した。

 送信。

 次。

 また送信。

 一時間ほどすると、最初の返事が届いた。

 理沙は画面を開いた。

 短い文章だった。

 今回は採用選考を進めない。

 それだけだった。

「早いね」

 思わず呟いた。

 人事担当者が理沙の経歴を読んだとは思えない。

 条件を照合し、採用候補になるかどうかをシステムが判断する。

 その程度の仕組みなら、理沙にもよく分かっていた。

 むしろ以前は、そうした仕組みを作る側に近いところにいた。

 今は、自分がその画面の向こう側で選別されている。

 少しだけ可笑しかった。

 笑えるほどではなかったが。

 理沙は不採用通知を閉じ、次の求人情報を開いた。

     *

 数日間、似たようなことを繰り返した。

 応募する。

 待つ。

 断られる。

 時には翌日まで返事がなく、少し期待する。

 そして断られる。

 面談の日程について聞かれたことは、まだ一度もなかった。

「まあ……そのうちね」

 誰に言うでもなく、そう言ってみる。

 そうでもしなければ、一日中この部屋で画面を見続けることになりそうだった。

 その日はスマートフォンをポケットへ入れ、外へ出た。

     *

 サンタモニカの海は、写真で見るよりずっと明るかった。

 白い砂浜。

 強い日差し。

 青い海の上を、光が細かく跳ねている。

 潮風に髪を揺らされながら、理沙はしばらく海を眺めていた。

 ここまで来たのだから、とスマートフォンを取り出す。

 海を背にして、自分の姿を画面に収めた。

 一枚。

 少し角度を変えて、もう一枚。

「観光客だね」

 自分で言って、少し笑った。

 その日は海岸沿いを長く歩いた。

 別の日にはユニバーサルスタジオの周辺を歩き、いかにもそれらしい場所で写真を撮った。

 ビバリーヒルズでは、高級店のショーウインドウを眺めた。

 中へ入ってみようかと思った店もあった。

 値札を見て、やめた。

 ドジャー・スタジアムにも行った。

 入り口近くまで行き、当日のチケット料金を確認する。

 理沙は数秒だけ画面を眺めた。

「……うん」

 スマートフォンを閉じた。

 球場を背景に写真だけ撮った。

     *

 撮った写真は、その日のうちに日本へ送った。

 湯浅。

 フィリップ。

 島崎。

 そして直子。

 反応はすぐに返ってきた。

 海がきれいだ。

 楽しそうだ。

 ロサンゼルスを満喫しているらしい。

 土産を忘れるな。

 どれも予想できそうな言葉だった。

 理沙はベッドに腰掛けながら、それらを眺めた。

「まあ、そんなものか」

 口元が少し緩んだ。

 こちらも、わざわざ説明する必要はない。

 ビバリーヒルズでは何一つ買っていない。

 球場にも入っていない。

 昼食代を節約するため、水と簡単なものをバッグに入れて歩いていたことも。

 写真には写らない。

 それでいい気がした。

     *

 帰宅したころには、両脚が重くなっていた。

 歩きすぎたせいか、ふくらはぎが張っている。

 日差しの中を長時間歩いたせいで、頭も少しぼんやりしていた。

「さすがに暑かった……」

 シャワーを浴び、冷たい水を首筋に当てる。

 ようやく身体の熱が引いた。

 簡単な食事を作って食べた。

 食器を片づけると、もう何かをする気にはなれなかった。

 ベッドに横になる。

 昼間の青い海が、遠いもののように感じられた。

 手元のスマートフォンを何となく操作する。

 送信履歴には、今日の写真が並んでいる。

 理沙は少し迷ってから、別の名前を呼び出した。

 小川美奈。

 画面に名前が表示された。

 送信する写真を選ぶ。

 サンタモニカの海を背に撮った一枚。

 あとは短い言葉を添えるだけだった。

 元気にしています。

 そんな一言でいい。

 親指が入力欄の上で止まった。

 しばらく、そのまま画面を見ていた。

 やがて写真の選択を解除した。

 文章も入力しなかった。

 理沙は静かに画面を閉じ、スマートフォンを枕元へ置いた。

 理由については考えなかった。

     *

 仰向けになって天井を見る。

 古いクロスはところどころ色が変わっていた。

 部屋の隅では、細い亀裂から壁紙が少し浮いている。

「あれ、自分で直せるかな」

 仕事が決まっていないことよりも、どうでもいいことが口から出た。

 脚はまだ重かった。

 スマートフォンには、新しい連絡は来ていない。

 明日の朝になれば、また求人情報を開くだろう。

 また応募する。

 また断られるかもしれない。

 それでも今のところ、他にすることもなかった。

「さて……明日はどうしようか」

 理沙は天井を見たまま呟いた。

 剥がれかけたクロスの影が、空調の風でかすかに揺れている。

 昼間の海も、華やかな街並みも、もうそこにはなかった。

 理沙は目を閉じた。

 観光客でいられる時間は、少しずつ短くなっていた。

 そんなことをまだはっきりとは考えないまま、理沙の意識はゆっくりと遠のいていった。



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