003_03_現実を突きつけられる

 それから一週間が過ぎた。

 理沙の仕事探しは、相変わらず続いていた。

 朝、目を覚ます。
 簡単な朝食をとる。
 スマートフォンを開く。

 職探しのエージェントから、新しい求人が何件か届いている。

 システム運用。
 事務。
 データ入力。
 ユーザーサポート。

 条件を読む。

 応募する。

 そして待つ。

 以前と違い、エージェントを介している分、求人そのものは途切れなかった。

 ただ、その先へ進めない。

 数時間後。

 あるいは翌日。

 表示されるのは、見慣れてしまった短い文章だった。

 今回は選考を進めない。

「……またか」

 理沙は画面を閉じた。

 面談の日程について聞かれたことは、まだ一度もない。

     *

 その日の午後、理沙は銀行口座を確認していた。

 残高を見つめる。

 まだ困窮するような金額ではない。

 けれど、前月より確実に減っている。

 当然だった。

 ロサンゼルスの家賃。

 食費。

 交通費。

 それに、日本に残した横浜の部屋の家賃も払い続けている。

 光熱費はほとんどかからないとはいえ、家賃だけは毎月きちんと引き落とされる。

 横浜の部屋を解約すればいい。

 そうすれば、ずいぶん楽になる。

 理沙はそこまで考えて、画面を閉じた。

 まだ、それはしたくなかった。

 東京へ戻ることになったとき、戻れる場所がある。

 今の理沙にとって、横浜の部屋は住居というより、そのための保険に近かった。

 窓際へ行く。

 昼下がりの日差しが強い。

 いつまで、ここにいるのだろう。

 一年。

 唐突に、その数字が頭に浮かんだ。

 一年やってみる。

 正社員でなくてもいい。
 短期の仕事でも、アルバイトでもいい。

 せめて、ここで暮らす分くらいは自分で稼ぐ。

 それを続けながら、一年間探してみる。

 それでも何も見つからなかったら、そのとき考えればいい。

 帰るか。

 別の場所へ行くか。

「一年か……」

 口に出してみる。

 途方もなく長い感じはしなかった。

 かといって、短くもない。

 理沙には、そのくらいがちょうどよく思えた。

     *

 翌日の午前中。

 職探しのエージェントから、新しい通知が届いた。

 ロサンゼルス市内の小さな会社。

 骨董品や健康食品を扱っている企業だった。

 募集職種は事務。

 理沙は会社のウェブサイトを開いた。

 古い家具。

 装飾品。

 健康食品。

 自然食品。

 それらの商品写真が並んでいる。

 取引実績として、いくつか大手通販会社の名前も掲載されていた。

「へえ」

 想像していたより、まともに見えた。

 少なくとも、個人経営の怪しげな店には見えない。

 給与は高くない。

 仕事も、これまでのシステム経験を直接生かせるものではなかった。

 それでも、今は職歴を選んでいる場合ではない。

 理沙は応募した。

     *

 翌日。

 面談についての返信が届いた。

「……早い」

 今まで散々断られてきただけに、少し拍子抜けした。

 会社までバスで行くこともできたが、最初の面談はリモートで受けられるという。

 理沙はそちらを選んだ。

 指定された時刻。

 スマートフォンを簡易スタンドに置き、接続する。

 画面に男女が現れた。

 三十代半ばくらいだろうか。

 夫婦らしい。

 男性はポロシャツ姿。

 女性は明るい色のブラウスを着ていた。

 どちらも、ごく普通に見えた。

「こんにちは。リサでいいのかな?」

「はい」

 女性が笑った。

「緊張しなくていいですよ。そんな大きな会社じゃないから」

 実際、面談は驚くほど穏やかに進んだ。

 ロサンゼルスへ来てどのくらいか。

 事務仕事の経験はあるか。

 パソコンは使えるか。

 勤務時間に問題はないか。

 そんな話が続いた。

 理沙のシステム会社での経歴についても触れられたが、深く聞かれることはなかった。

 仕事の内容について尋ねる。

「基本は受注処理と在庫管理です。それに取引先との連絡ですね」

 男性が答えた。

「商品はいろいろあるから、仕事をしながら覚えてもらえれば」

「輸入品も扱っているんですか?」

「ええ。多少は」

 男性は笑った。

 それ以上の説明はなかった。

 別に珍しいことではない。

 小さな会社なら、業務の境界が曖昧なのもよくある。

 そう思った。

 面談は三十分もかからずに終わった。

「よかったら、二日後に一度オフィスへ来てください」

 女性が言った。

「そのとき、詳しい仕事の説明をします」

「分かりました」

 接続が切れた。

 静かになった部屋で、理沙は椅子の背にもたれた。

「やっと……」

 面談まで行った。

 しかも次は事務所で会う。

 採用されるとは限らない。

 それでも、今までとは違う。

     *

 理沙はベランダへ出た。

 両腕を上げ、大きく背伸びをする。

 その瞬間、隣のビルから熱気が流れてきた。

「熱っ……」

 室外機が何台も並び、盛大に熱風を吐き出している。

 理沙は苦笑しながら腕を下ろした。

 暑い。

 それでも、久しぶりに気持ちは軽かった。

 少なくとも、職を得る道が一本見えた。

 部屋へ戻る。

 冷蔵庫から水を取り出し、一口飲む。

 そこで、ふと手が止まった。

 何かが引っかかっていた。

 理由は分からない。

 面談の夫婦は感じがよかった。

 仕事内容も、それほど不自然ではない。

 ただ――。

 採用までの話が、少し早すぎないか。

 理沙の経歴について、ほとんど興味を示さなかった。

 輸入品について聞いたときも、説明は曖昧だった。

「……考えすぎかな」

 そう呟いたとき、ふと昔のことを思い出した。

 スマートフォンを手に取る。

 ブックマークの奥に、しばらく開いていなかったサイトが残っていた。

 「HALUCA」から突然ダイレクトメッセージが届いたとき、島崎に教えてもらった企業信用情報サービスだった。

「これ、海外でも使えるんだっけ」

 サイトを開く。

 企業名を入力する。

 会社のウェブサイト。

 所在地。

 分かる範囲の情報を追加した。

 照会。

 画面に、調査中の表示が出る。

 理沙はベッドに腰掛けた。

 一分。

 二分。

 長い。

 五分ほどして、通知音が鳴った。

 結果が表示された。

 理沙は画面を見る。

 最初に目に入ったのは、総合信用判定だった。

 **高リスク。**

「……え?」

 画面をスクロールする。

 複数の関連企業に、重大な信用警告。

 過去の輸出入記録と、公開されている取扱商品の間に不自然な差異。

 関連会社の一部が、違法薬物流通に関する捜査記録に登場している。

 さらに下へ。

 地方政治家との不透明な資金関係を指摘する過去の記事。

 警察関係者との接触記録についても、未確認情報として複数の調査資料が引用されていた。

 どれか一つなら、誤情報かもしれない。

 小さな会社なら、同名企業との取り違えもあり得る。

 理沙は企業所在地を確認した。

 一致している。

 代表者名。

 一致。

 会社サイト。

 一致。

 もう一度、最初から読み直した。

 さっきまで画面に映っていた夫婦の顔が浮かんだ。

 穏やかな笑顔。

 緊張しなくていい、と言った女性。

 気さくに話していた男性。

 その顔と、スマートフォンに並ぶ文字が、うまく結びつかなかった。

 背中に、冷たいものが走った。

「……駄目だ」

 理沙は画面を閉じた。

     *

 しばらく何もせず、ベッドに座っていた。

 二日後に事務所へ行く約束をしている。

 もし、サイトの情報が間違っていたら。

 せっかくの仕事を自分から捨てることになる。

 給与は高くない。

 やりたい仕事でもない。

 それでも、今の理沙には必要な収入だった。

 理沙は窓の外を見た。

 向かいの室外機が回っている。

 低い唸りが、閉めた窓越しにも聞こえた。

「……いや」

 理沙はスマートフォンを取り上げた。

 メールを開く。

 先ほどの夫婦の宛先を呼び出す。

 数行だけ書いた。

 面談への礼。

 二日後の訪問を辞退すること。

 そして、今回の応募そのものを取り下げたいこと。

 理由は書かなかった。

 何度か読み返す。

 送信。

 画面からメールが消えた。

 理沙はスマートフォンを伏せてテーブルに置いた。

 これでまた、仕事のない状態に戻った。

 明日の朝になれば、また求人情報を探すことになる。

 残高は減り続ける。

 それでも。

 理沙はしばらく伏せたスマートフォンを見てから、静かに息を吐いた。

 仕事が必要なのと、どんな仕事でもいいということは、同じではなかった。

 ロサンゼルスで暮らすということが、少しずつ分かり始めていた。



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