それから一週間が過ぎた。
理沙の仕事探しは、相変わらず続いていた。
朝、目を覚ます。
簡単な朝食をとる。
スマートフォンを開く。
職探しのエージェントから、新しい求人が何件か届いている。
システム運用。
事務。
データ入力。
ユーザーサポート。
条件を読む。
応募する。
そして待つ。
以前と違い、エージェントを介している分、求人そのものは途切れなかった。
ただ、その先へ進めない。
数時間後。
あるいは翌日。
表示されるのは、見慣れてしまった短い文章だった。
今回は選考を進めない。
「……またか」
理沙は画面を閉じた。
面談の日程について聞かれたことは、まだ一度もない。
*
その日の午後、理沙は銀行口座を確認していた。
残高を見つめる。
まだ困窮するような金額ではない。
けれど、前月より確実に減っている。
当然だった。
ロサンゼルスの家賃。
食費。
交通費。
それに、日本に残した横浜の部屋の家賃も払い続けている。
光熱費はほとんどかからないとはいえ、家賃だけは毎月きちんと引き落とされる。
横浜の部屋を解約すればいい。
そうすれば、ずいぶん楽になる。
理沙はそこまで考えて、画面を閉じた。
まだ、それはしたくなかった。
東京へ戻ることになったとき、戻れる場所がある。
今の理沙にとって、横浜の部屋は住居というより、そのための保険に近かった。
窓際へ行く。
昼下がりの日差しが強い。
いつまで、ここにいるのだろう。
一年。
唐突に、その数字が頭に浮かんだ。
一年やってみる。
正社員でなくてもいい。
短期の仕事でも、アルバイトでもいい。
せめて、ここで暮らす分くらいは自分で稼ぐ。
それを続けながら、一年間探してみる。
それでも何も見つからなかったら、そのとき考えればいい。
帰るか。
別の場所へ行くか。
「一年か……」
口に出してみる。
途方もなく長い感じはしなかった。
かといって、短くもない。
理沙には、そのくらいがちょうどよく思えた。
*
翌日の午前中。
職探しのエージェントから、新しい通知が届いた。
ロサンゼルス市内の小さな会社。
骨董品や健康食品を扱っている企業だった。
募集職種は事務。
理沙は会社のウェブサイトを開いた。
古い家具。
装飾品。
健康食品。
自然食品。
それらの商品写真が並んでいる。
取引実績として、いくつか大手通販会社の名前も掲載されていた。
「へえ」
想像していたより、まともに見えた。
少なくとも、個人経営の怪しげな店には見えない。
給与は高くない。
仕事も、これまでのシステム経験を直接生かせるものではなかった。
それでも、今は職歴を選んでいる場合ではない。
理沙は応募した。
*
翌日。
面談についての返信が届いた。
「……早い」
今まで散々断られてきただけに、少し拍子抜けした。
会社までバスで行くこともできたが、最初の面談はリモートで受けられるという。
理沙はそちらを選んだ。
指定された時刻。
スマートフォンを簡易スタンドに置き、接続する。
画面に男女が現れた。
三十代半ばくらいだろうか。
夫婦らしい。
男性はポロシャツ姿。
女性は明るい色のブラウスを着ていた。
どちらも、ごく普通に見えた。
「こんにちは。リサでいいのかな?」
「はい」
女性が笑った。
「緊張しなくていいですよ。そんな大きな会社じゃないから」
実際、面談は驚くほど穏やかに進んだ。
ロサンゼルスへ来てどのくらいか。
事務仕事の経験はあるか。
パソコンは使えるか。
勤務時間に問題はないか。
そんな話が続いた。
理沙のシステム会社での経歴についても触れられたが、深く聞かれることはなかった。
仕事の内容について尋ねる。
「基本は受注処理と在庫管理です。それに取引先との連絡ですね」
男性が答えた。
「商品はいろいろあるから、仕事をしながら覚えてもらえれば」
「輸入品も扱っているんですか?」
「ええ。多少は」
男性は笑った。
それ以上の説明はなかった。
別に珍しいことではない。
小さな会社なら、業務の境界が曖昧なのもよくある。
そう思った。
面談は三十分もかからずに終わった。
「よかったら、二日後に一度オフィスへ来てください」
女性が言った。
「そのとき、詳しい仕事の説明をします」
「分かりました」
接続が切れた。
静かになった部屋で、理沙は椅子の背にもたれた。
「やっと……」
面談まで行った。
しかも次は事務所で会う。
採用されるとは限らない。
それでも、今までとは違う。
*
理沙はベランダへ出た。
両腕を上げ、大きく背伸びをする。
その瞬間、隣のビルから熱気が流れてきた。
「熱っ……」
室外機が何台も並び、盛大に熱風を吐き出している。
理沙は苦笑しながら腕を下ろした。
暑い。
それでも、久しぶりに気持ちは軽かった。
少なくとも、職を得る道が一本見えた。
部屋へ戻る。
冷蔵庫から水を取り出し、一口飲む。
そこで、ふと手が止まった。
何かが引っかかっていた。
理由は分からない。
面談の夫婦は感じがよかった。
仕事内容も、それほど不自然ではない。
ただ――。
採用までの話が、少し早すぎないか。
理沙の経歴について、ほとんど興味を示さなかった。
輸入品について聞いたときも、説明は曖昧だった。
「……考えすぎかな」
そう呟いたとき、ふと昔のことを思い出した。
スマートフォンを手に取る。
ブックマークの奥に、しばらく開いていなかったサイトが残っていた。
「HALUCA」から突然ダイレクトメッセージが届いたとき、島崎に教えてもらった企業信用情報サービスだった。
「これ、海外でも使えるんだっけ」
サイトを開く。
企業名を入力する。
会社のウェブサイト。
所在地。
分かる範囲の情報を追加した。
照会。
画面に、調査中の表示が出る。
理沙はベッドに腰掛けた。
一分。
二分。
長い。
五分ほどして、通知音が鳴った。
結果が表示された。
理沙は画面を見る。
最初に目に入ったのは、総合信用判定だった。
**高リスク。**
「……え?」
画面をスクロールする。
複数の関連企業に、重大な信用警告。
過去の輸出入記録と、公開されている取扱商品の間に不自然な差異。
関連会社の一部が、違法薬物流通に関する捜査記録に登場している。
さらに下へ。
地方政治家との不透明な資金関係を指摘する過去の記事。
警察関係者との接触記録についても、未確認情報として複数の調査資料が引用されていた。
どれか一つなら、誤情報かもしれない。
小さな会社なら、同名企業との取り違えもあり得る。
理沙は企業所在地を確認した。
一致している。
代表者名。
一致。
会社サイト。
一致。
もう一度、最初から読み直した。
さっきまで画面に映っていた夫婦の顔が浮かんだ。
穏やかな笑顔。
緊張しなくていい、と言った女性。
気さくに話していた男性。
その顔と、スマートフォンに並ぶ文字が、うまく結びつかなかった。
背中に、冷たいものが走った。
「……駄目だ」
理沙は画面を閉じた。
*
しばらく何もせず、ベッドに座っていた。
二日後に事務所へ行く約束をしている。
もし、サイトの情報が間違っていたら。
せっかくの仕事を自分から捨てることになる。
給与は高くない。
やりたい仕事でもない。
それでも、今の理沙には必要な収入だった。
理沙は窓の外を見た。
向かいの室外機が回っている。
低い唸りが、閉めた窓越しにも聞こえた。
「……いや」
理沙はスマートフォンを取り上げた。
メールを開く。
先ほどの夫婦の宛先を呼び出す。
数行だけ書いた。
面談への礼。
二日後の訪問を辞退すること。
そして、今回の応募そのものを取り下げたいこと。
理由は書かなかった。
何度か読み返す。
送信。
画面からメールが消えた。
理沙はスマートフォンを伏せてテーブルに置いた。
これでまた、仕事のない状態に戻った。
明日の朝になれば、また求人情報を探すことになる。
残高は減り続ける。
それでも。
理沙はしばらく伏せたスマートフォンを見てから、静かに息を吐いた。
仕事が必要なのと、どんな仕事でもいいということは、同じではなかった。
ロサンゼルスで暮らすということが、少しずつ分かり始めていた。
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