ロサンゼルスの夏は、相変わらず明るかった。
窓の外を見れば、空は高く、青い。
東京の夏のように湿気が身体へまとわりつく感じはない。日差しそのものは容赦なく強かったが、日陰へ入れば風は乾いていた。
そんな空を見ていると、部屋の中で求人情報ばかり眺めているのが馬鹿らしくなることがあった。
気持ちが塞いできた日は、理沙は外へ出た。
*
サンタモニカまで足を延ばす。
海岸沿いを歩くのは、これで何度目だろう。
観光客の姿。
自転車で走り抜けていく若者。
砂浜では、子供たちが波から逃げながら笑っている。
理沙は海沿いの手すりに腕を乗せた。
水平線の上は、ほとんど何もない。
風だけが髪を揺らしていた。
ぼんやり海を見ていると、頭の中に言葉が浮かんだ。
理沙はスマートフォンを取り出した。
メモを開く。
――風の向こう。
少し考える。
――見えない街。
もう一つ。
――帰る場所。
「……なんだろ、これ」
自分で書いた文字を見て、少し笑った。
歌詞というほどのものではない。
思いついた言葉を、ただ並べただけだった。
それでも削除はしなかった。
いつか、その気になったら。
曲の断片くらいにはなるかもしれない。
歌手に戻りたいのかと聞かれれば、違うような気がした。
ライブハウスへ戻りたいとも思わない。
ただ、海を見たり、風を感じたりすると、昔と同じように言葉が勝手に浮かんでくる。
それだけだった。
理沙はスマートフォンをポケットへ戻した。
*
仕事探しの方は、思うようには進まなかった。
先日の会社を断ったあとも、職探しエージェントから求人情報は届き続けた。
条件を下げれば、数だけは増えた。
経験不問。
即日勤務。
高収入。
簡単な事務作業。
理沙は一つずつ内容を確認した。
会社所在地が曖昧。
給与体系の説明がない。
業務内容を聞くと、面談で説明するとしか答えない。
会社名を検索しても、まともな情報がほとんど出てこない。
「……またか」
理沙は一件を閉じた。
もう一件。
こちらも似たようなものだった。
仕事を選んでいる場合ではない。
そう思って条件を下げた。
ところが、条件を下げれば下げるほど、今度は信用できる仕事を見つける方が難しくなった。
理沙は椅子から立ち上がった。
狭い部屋を二、三歩歩く。
また椅子へ戻る。
何も変わらない。
*
ふと、去年の今ごろのことを思い出した。
ライブハウスの照明。
ステージの熱。
背後から聞こえる島崎のドラム。
フィリップのベース。
その横でギターを弾く湯浅。
マイクを握っていた自分。
あのころは、次に何を歌うかを考えていた。
今は、明日の生活費をどうするかを考えている。
どちらが本当の自分なのだろう。
そんなことを考えかけて、やめた。
どちらも自分なのだろう。
ただ、場所が違う。
*
夜。
理沙はベッドに横になっていた。
見上げる天井には、以前から気になっている剥がれかけたクロスがある。
端の部分が少し浮き、空調の風が当たるたびにわずかに動く。
ぼんやりそれを眺めていた。
「……東京に戻ろうかな」
声に出した。
部屋の中には誰もいない。
だから誰からも返事はなかった。
目を閉じる。
横浜の部屋が思い浮かんだ。
見慣れた駅。
いつものスーパー。
電車。
日本語で話せば通じる生活。
仕事だって、東京なら何か見つかるだろう。
以前の会社へ戻れるとは思わない。
それでも、ここよりはずっと簡単なはずだった。
理沙は目を開けた。
枕元のスマートフォンを取った。
東京行き。
航空券。
検索する。
いくつもの便が表示された。
来週。
再来週。
一か月後。
どれでも買える。
画面の中には、東京へ戻る道が何本も並んでいた。
「……帰れるんだ」
当たり前のことだった。
誰かに追われているわけではない。
帰国を禁じられているわけでもない。
航空券を買えば、それで終わる。
数日後には日本にいる。
そう考えた瞬間、少しだけ気持ちが楽になった。
同時に、妙な悔しさもあった。
ロサンゼルスへ来て、まだ二か月も経っていない。
住む場所を探して。
何度も仕事へ応募して。
怪しい会社を一つ断った。
それだけだ。
「何しに来たんだろ」
自分に言った。
答えは出なかった。
*
翌朝。
理沙は横浜の部屋の管理会社のサイトを開いていた。
契約情報。
解約手続き。
画面を順番に進める。
退去希望日。
連絡先。
立ち会い方法。
入力欄を一つずつ埋めた。
ここを解約すれば、毎月の負担はかなり減る。
戻る場所もなくなる。
いや。
正確には、戻れなくなるわけではない。
日本へ帰れば、またどこかを借りればいい。
ただ、今ある場所へそのまま帰ることはできなくなる。
最後の確認画面が表示された。
画面の下に、確定のボタンがある。
理沙の親指が、その上まで来た。
止まった。
数秒。
そのまま動かない。
「……」
理沙は画面を見つめた。
押せばいい。
そうすれば、少なくとも一つは覚悟が決まる。
ここで生きていくしかなくなる。
それくらいしなければ、自分はいつまでも逃げ道を見てしまう。
そう思った。
それでも、押せなかった。
理沙はゆっくり親指を離した。
画面を一つ戻す。
さらに戻す。
そしてサイトを閉じた。
スマートフォンをテーブルに置く。
「……まだ、いいか」
自分に言い聞かせるようでもあり、言い訳をしているようでもあった。
横浜の部屋は、そのまま残った。
退路を断つところまでは、まだ行けなかった。
でも。
東京行きの航空券も買わなかった。
*
翌週から、理沙はロサンゼルス中心部のファストフード店で働き始めた。
制服を受け取る。
帽子をかぶる。
最初に教えられたのは、注文処理の方法と厨房での基本的な動きだった。
端末の操作そのものは難しくない。
むしろ大変だったのは、昼時だった。
客が途切れない。
注文が重なる。
番号が次々と表示される。
「リサ、次お願い!」
「はい」
反射的に答える。
気づけば数時間立ちっぱなしだった。
仕事を終えて外へ出るころには、脚が重い。
けれど、給与は出る。
少なくとも、この時間は確実に金に変わる。
それだけで、不採用通知を眺めて一日が終わるより、少しだけ気持ちは楽だった。
その翌週には、近所のスーパーでも仕事を始めた。
品出し。
在庫確認。
ときどきレジ。
二つの仕事を掛け持ちすると、一日の時間は急に短くなった。
朝起きる。
働く。
移動する。
また働く。
帰宅する。
シャワーを浴びる。
食事をする。
眠る。
生活そのものは忙しくなった。
それでも理沙は、仕事探しをやめなかった。
*
夜。
ベッドの上で求人情報を開く。
以前のように、手当たり次第には応募しない。
会社名。
仕事内容。
雇用条件。
信用情報。
通勤経路。
一件ずつ見る。
これは違う。
これも違う。
これは少し気になる。
画面を保存する。
明日、もう一度調べよう。
理沙はスマートフォンを枕元へ置いた。
窓の外から、あの室外機の低い音が聞こえていた。
横浜の部屋は、まだある。
帰ろうと思えば帰れる。
その事実は変わっていない。
けれど、今夜の理沙は東京行きの便を検索しなかった。
明日の勤務時間を確認する。
そのあと、保存しておいた求人情報をもう一度だけ開いた。
それから画面を消した。
まだ、退路を断ち切ったわけではない。
ただ。
少なくとも今日は、そこへ逃げ込まないことにした。
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