003_05_生活の基盤

 朝、目覚ましが鳴る少し前に目が覚める。

 カーテンの隙間から、もう明るい光が差し込んでいた。

 理沙はしばらく天井を見たあと、身体を起こした。

 時計を見る。

 いつもの時間だった。

 顔を洗う。

 簡単な朝食を作る。

 仕事へ出る。

 昼過ぎまでファストフード店。

 少し間を空けて、夕方からは近所のスーパー。

 帰宅するころには脚が重く、シャワーを浴びて食事を済ませれば、あとはベッドへ倒れ込むだけだった。

 最初のころは、その繰り返しが息苦しく感じられた。

 それがいつの間にか、生活になっていた。

 曜日ごとの勤務時間も覚えた。

 どのバスに乗れば少し早く着くのかも分かる。

 スーパーでは、閉店前になると値下げされる食材の場所まで覚えた。

 休みは一週間に一日だけだった。

 天気がよければ、その日は部屋に閉じこもらず、近所を歩いた。

 目的地はなくてもいい。

 知らない通りを歩き、知らない店を見る。

 帰りに食材を買う。

 それだけでも、仕事だけで一週間が終わる感じが少し薄れた。

 収入は多くない。

 それでも、何も入ってこなかったころとは違う。

 少なくとも、ロサンゼルスで暮らすための金を、自分で少しずつ稼いでいる。

 そんな生活の形が、ようやくでき始めていた。

     *

 その朝も、いつもと変わらなかった。

 理沙は小さなテーブルで朝食を食べていた。

 パンを一口。

 コーヒーを飲む。

 スマートフォンを見る。

 職探しエージェントから、新しい求人情報が何件か届いていた。

 食べながら、機械的に画面を送る。

 販売。

 事務。

 倉庫管理。

 顧客対応。

 興味のないものは、そのまま飛ばす。

 次。

 そこで、指が止まった。

 画面の上部に表示されている文字を見る。

 **ロサンゼルス交通局――システム管理業務。**

 理沙はパンを持ったまま、もう一度タイトルを見た。

「……交通局?」

 パンを皿へ戻した。

 募集内容を開く。

 交通管制システムの管理・監視。

 運用支援。

 障害発生時の一次対応。

 システム管理担当者二名の欠員に伴う、経験者の緊急募集。

 必須スキルの一覧が続く。

 理沙は一つずつ目で追った。

 サーバー監視。

 ネットワークの基礎知識。

 障害対応。

 運用記録。

 夜間勤務あり。

「……これなら」

 東京で働いていたころの経験を頭の中で照らし合わせる。

 全部ではない。

 ただ、まったく知らない仕事でもなかった。

 十分に食いつける。

 時計を見る。

 家を出るまで、あと15分。

「15分……」

 理沙は求人情報の掲載元を確認した。

 先日のことが頭をよぎる。

 会社名だけを信用する気にはなれなかった。

 交通局の公式採用情報。

 エージェント側の登録番号。

 募集部署。

 連絡先。

 一つずつ確認する。

 正規の求人だった。

 時計を見る。

 あと12分。

「よし」

 履歴書データを呼び出す。

 応募フォームへ添付。

 職歴。

 希望条件。

 短い志望理由。

 文章を一度読み返す。

 送信。

 画面に受付完了と表示された。

 理沙は立ち上がった。

「まずい」

 寝室代わりのスペースへ駆け込み、仕事着に着替える。

 髪を整える。

 財布。

 スマートフォン。

 鍵。

 バッグへ放り込む。

 玄関へ向かう途中で、スマートフォンが鳴った。

 立ち止まって見る。

 応募受付の確認メールだった。

「はいはい。受け付けました、ね」

 それ以上の意味はない。

 分かっている。

 それでも、もう一度だけ画面を見てからポケットへ入れた。

 ドアを閉める。

 今日もまた、一日が始まった。

     *

 ファストフード店は、昼前から忙しくなった。

 注文が次々と入る。

 端末に番号が並ぶ。

 厨房から声が飛ぶ。

「リサ、こっちお願い!」

「はい!」

 理沙はトレーを取り、商品を確認した。

 客へ渡す。

 次。

 また次。

 仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済む。

 ――はずだった。

 二人。

 募集は、たった二人だった。

 この条件なら、自分と同じような経験を持つ人間が何人応募しているのだろう。

 十人。

 五十人。

 もっとかもしれない。

「……ハイエナみたいに集まってそう」

「何?」

 近くにいた同僚が振り向いた。

「なんでもない」

 理沙はすぐに注文画面へ視線を戻した。

 自分だって、その中の一匹だった。

     *

 最初の休憩。

 ロッカーからスマートフォンを取り出す。

 新着メール。

 二件。

 ひとつは広告。

 もうひとつは職探しエージェントから別の求人案内。

 交通局からの連絡はない。

「まあ、そんなに早くないか」

 画面を消した。

 昼の休憩。

 もう一度確認する。

 ない。

 午後の勤務が終わるころにも、連絡はなかった。

 理沙は制服を着替え、スーパーへ向かった。

 今日は夕方から閉店近くまでのシフトだった。

     *

 スーパーでは、レジに入った。

 買い物客が途切れずに並ぶ。

 商品を読み取る。

 袋を渡す。

 支払いを確認する。

「ありがとうございました」

 次の客。

 牛乳。

 パン。

 冷凍食品。

 野菜。

 画面に金額を表示する。

 客が端末に支払い情報を入力しているときだった。

 腰のポケットで、スマートフォンが振動した。

 理沙の肩がわずかに動いた。

 通知音。

 長さからしてメールだった。

 今すぐ見たい。

 だが、目の前には客がいる。

 理沙は何事もなかったようにレジ画面を見る。

「ありがとうございました」

 客が袋を持って離れていく。

 次の客が来るまで、ほんの少し間が空いた。

 理沙はポケットへ手を入れかけた。

 やめる。

 また客が来た。

「いらっしゃいませ」

 商品を読み取る。

 その数十秒が、妙に長かった。

     *

 ようやくレジを離れられたのは、それからしばらくしてからだった。

 バックヤードへ入る。

 理沙はスマートフォンを取り出した。

 画面を開く。

 一番上に、新しいメールが表示されていた。

 送信元を見る。

 ロサンゼルス交通局。

 理沙の指が止まった。

 メールを開く。

 **面談日時についてのご案内。**

「……え」

 もう一度読む。

 応募内容を確認した結果、面談を実施したい。

 候補日時。

 実施場所。

 必要書類。

 間違いない。

 面談だった。

「……やった」

 声が漏れた。

 次の瞬間、理沙は小さく拳を握った。

 自分でも意識する前だった。

「よしっ」

 握った拳を胸元まで持ち上げる。

 近くを通りかかった同僚が、足を止めた。

「どうしたの?」

 理沙は我に返った。

「え?」

 自分の右手を見る。

 まだ拳を握っている。

「……なんでもない」

「そう?」

「うん。なんでもない」

 理沙は拳を下ろした。

 同僚は不思議そうな顔をしながら、そのまま行ってしまった。

 理沙はもう一度、スマートフォンを見た。

 面談日時の案内。

 採用ではない。

 仕事が決まったわけでもない。

 今までなら、ただの途中経過だったかもしれない。

 けれど、ロサンゼルスへ来てからは、その途中までたどり着くことすらできなかった。

 何度応募しても、画面の向こう側で弾かれた。

 怪しい会社なら面談まで進んだ。

 でも、まともな仕事では一度もなかった。

 今回、初めてだった。

 理沙はメールを保存した。

 スマートフォンをポケットへ戻す。

 バックヤードのドアを開けた。

 店内から、レジを知らせる音が聞こえてくる。

 まだ勤務時間は残っている。

「はいはい」

 誰に言うでもなく呟いて、理沙はレジへ戻った。

 歩きながら、口元が少し緩んでいることには気づいていた。

 今夜も帰れば疲れているだろう。

 明日の朝も、いつもの時間に起きる。

 生活は、たぶん何も変わらない。

 それでも。

 その生活の先に、これまでとは違う道が一本だけ見えた。

 細くても。

 まだ入口だけでも。

 今の理沙には、それで十分だった。



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