朝、目覚ましが鳴る少し前に目が覚める。
カーテンの隙間から、もう明るい光が差し込んでいた。
理沙はしばらく天井を見たあと、身体を起こした。
時計を見る。
いつもの時間だった。
顔を洗う。
簡単な朝食を作る。
仕事へ出る。
昼過ぎまでファストフード店。
少し間を空けて、夕方からは近所のスーパー。
帰宅するころには脚が重く、シャワーを浴びて食事を済ませれば、あとはベッドへ倒れ込むだけだった。
最初のころは、その繰り返しが息苦しく感じられた。
それがいつの間にか、生活になっていた。
曜日ごとの勤務時間も覚えた。
どのバスに乗れば少し早く着くのかも分かる。
スーパーでは、閉店前になると値下げされる食材の場所まで覚えた。
休みは一週間に一日だけだった。
天気がよければ、その日は部屋に閉じこもらず、近所を歩いた。
目的地はなくてもいい。
知らない通りを歩き、知らない店を見る。
帰りに食材を買う。
それだけでも、仕事だけで一週間が終わる感じが少し薄れた。
収入は多くない。
それでも、何も入ってこなかったころとは違う。
少なくとも、ロサンゼルスで暮らすための金を、自分で少しずつ稼いでいる。
そんな生活の形が、ようやくでき始めていた。
*
その朝も、いつもと変わらなかった。
理沙は小さなテーブルで朝食を食べていた。
パンを一口。
コーヒーを飲む。
スマートフォンを見る。
職探しエージェントから、新しい求人情報が何件か届いていた。
食べながら、機械的に画面を送る。
販売。
事務。
倉庫管理。
顧客対応。
興味のないものは、そのまま飛ばす。
次。
そこで、指が止まった。
画面の上部に表示されている文字を見る。
**ロサンゼルス交通局――システム管理業務。**
理沙はパンを持ったまま、もう一度タイトルを見た。
「……交通局?」
パンを皿へ戻した。
募集内容を開く。
交通管制システムの管理・監視。
運用支援。
障害発生時の一次対応。
システム管理担当者二名の欠員に伴う、経験者の緊急募集。
必須スキルの一覧が続く。
理沙は一つずつ目で追った。
サーバー監視。
ネットワークの基礎知識。
障害対応。
運用記録。
夜間勤務あり。
「……これなら」
東京で働いていたころの経験を頭の中で照らし合わせる。
全部ではない。
ただ、まったく知らない仕事でもなかった。
十分に食いつける。
時計を見る。
家を出るまで、あと15分。
「15分……」
理沙は求人情報の掲載元を確認した。
先日のことが頭をよぎる。
会社名だけを信用する気にはなれなかった。
交通局の公式採用情報。
エージェント側の登録番号。
募集部署。
連絡先。
一つずつ確認する。
正規の求人だった。
時計を見る。
あと12分。
「よし」
履歴書データを呼び出す。
応募フォームへ添付。
職歴。
希望条件。
短い志望理由。
文章を一度読み返す。
送信。
画面に受付完了と表示された。
理沙は立ち上がった。
「まずい」
寝室代わりのスペースへ駆け込み、仕事着に着替える。
髪を整える。
財布。
スマートフォン。
鍵。
バッグへ放り込む。
玄関へ向かう途中で、スマートフォンが鳴った。
立ち止まって見る。
応募受付の確認メールだった。
「はいはい。受け付けました、ね」
それ以上の意味はない。
分かっている。
それでも、もう一度だけ画面を見てからポケットへ入れた。
ドアを閉める。
今日もまた、一日が始まった。
*
ファストフード店は、昼前から忙しくなった。
注文が次々と入る。
端末に番号が並ぶ。
厨房から声が飛ぶ。
「リサ、こっちお願い!」
「はい!」
理沙はトレーを取り、商品を確認した。
客へ渡す。
次。
また次。
仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済む。
――はずだった。
二人。
募集は、たった二人だった。
この条件なら、自分と同じような経験を持つ人間が何人応募しているのだろう。
十人。
五十人。
もっとかもしれない。
「……ハイエナみたいに集まってそう」
「何?」
近くにいた同僚が振り向いた。
「なんでもない」
理沙はすぐに注文画面へ視線を戻した。
自分だって、その中の一匹だった。
*
最初の休憩。
ロッカーからスマートフォンを取り出す。
新着メール。
二件。
ひとつは広告。
もうひとつは職探しエージェントから別の求人案内。
交通局からの連絡はない。
「まあ、そんなに早くないか」
画面を消した。
昼の休憩。
もう一度確認する。
ない。
午後の勤務が終わるころにも、連絡はなかった。
理沙は制服を着替え、スーパーへ向かった。
今日は夕方から閉店近くまでのシフトだった。
*
スーパーでは、レジに入った。
買い物客が途切れずに並ぶ。
商品を読み取る。
袋を渡す。
支払いを確認する。
「ありがとうございました」
次の客。
牛乳。
パン。
冷凍食品。
野菜。
画面に金額を表示する。
客が端末に支払い情報を入力しているときだった。
腰のポケットで、スマートフォンが振動した。
理沙の肩がわずかに動いた。
通知音。
長さからしてメールだった。
今すぐ見たい。
だが、目の前には客がいる。
理沙は何事もなかったようにレジ画面を見る。
「ありがとうございました」
客が袋を持って離れていく。
次の客が来るまで、ほんの少し間が空いた。
理沙はポケットへ手を入れかけた。
やめる。
また客が来た。
「いらっしゃいませ」
商品を読み取る。
その数十秒が、妙に長かった。
*
ようやくレジを離れられたのは、それからしばらくしてからだった。
バックヤードへ入る。
理沙はスマートフォンを取り出した。
画面を開く。
一番上に、新しいメールが表示されていた。
送信元を見る。
ロサンゼルス交通局。
理沙の指が止まった。
メールを開く。
**面談日時についてのご案内。**
「……え」
もう一度読む。
応募内容を確認した結果、面談を実施したい。
候補日時。
実施場所。
必要書類。
間違いない。
面談だった。
「……やった」
声が漏れた。
次の瞬間、理沙は小さく拳を握った。
自分でも意識する前だった。
「よしっ」
握った拳を胸元まで持ち上げる。
近くを通りかかった同僚が、足を止めた。
「どうしたの?」
理沙は我に返った。
「え?」
自分の右手を見る。
まだ拳を握っている。
「……なんでもない」
「そう?」
「うん。なんでもない」
理沙は拳を下ろした。
同僚は不思議そうな顔をしながら、そのまま行ってしまった。
理沙はもう一度、スマートフォンを見た。
面談日時の案内。
採用ではない。
仕事が決まったわけでもない。
今までなら、ただの途中経過だったかもしれない。
けれど、ロサンゼルスへ来てからは、その途中までたどり着くことすらできなかった。
何度応募しても、画面の向こう側で弾かれた。
怪しい会社なら面談まで進んだ。
でも、まともな仕事では一度もなかった。
今回、初めてだった。
理沙はメールを保存した。
スマートフォンをポケットへ戻す。
バックヤードのドアを開けた。
店内から、レジを知らせる音が聞こえてくる。
まだ勤務時間は残っている。
「はいはい」
誰に言うでもなく呟いて、理沙はレジへ戻った。
歩きながら、口元が少し緩んでいることには気づいていた。
今夜も帰れば疲れているだろう。
明日の朝も、いつもの時間に起きる。
生活は、たぶん何も変わらない。
それでも。
その生活の先に、これまでとは違う道が一本だけ見えた。
細くても。
まだ入口だけでも。
今の理沙には、それで十分だった。
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