台車の車輪が、硬い床の上で低い音を立てていた。
理沙は両手で取っ手を押しながら、ゆっくりと廊下を進んだ。
載っているのは、梱包を解いたばかりのフラットパネルディスプレイと、分解されたコンソール机の部材だった。
見た目以上に重い。
エレベーターの前で台車を止める。
扉が開いた。
中へ押し込む。
身体を横へずらし、自分も乗る。
階数ボタンを押すと、静かに扉が閉じた。
壁面の時計は、午後11時を少し過ぎたところだった。
もう遅い時間だという感覚は、ほとんどない。
この仕事を始めて、一か月。
週のうち4日は、昼と夜が逆になっていた。
最初の数日は朝方になると身体が重くなったが、今では深夜になっても眠気はほとんど来ない。
夜中に働くことだけなら、昔から慣れていた。
ただし、あのころとはずいぶん違う。
ステージの照明もない。
音楽もない。
あるのは、機械の音と、工具の音と、時々飛んでくる作業指示だけだった。
エレベーターが止まった。
理沙は再び台車を押した。
*
「それ、3番区画。壁際へ」
作業リーダーが手を上げた。
「了解」
理沙は短く答えた。
台車を方向転換する。
部屋は広かった。
二か月ほど前までは、備品を置いておくだけの倉庫だったらしい。
今では、その面影はほとんどない。
床には作業区域を示す線が引かれ、その内側には機材の箱が何列にも並んでいる。
開梱されたラック。
まだフィルムの付いたディスプレイ。
束ねられたケーブル。
組み立て途中のコンソール。
天井からは仮設の配線が何本も下りていた。
フロアのあちこちで、人が黙々と手を動かしている。
ここはやがて、新しい監視制御センターになる。
全米5か所で構築が進む新しい交通制御センターと接続され、道路や交通設備から上がってくる情報を集約する予定だった。
今はまだ、その姿を想像する方が難しい。
理沙は台車を壁際へ止めた。
前方では、巨大な壁面の一部にディスプレイの取り付け作業が始まっていた。
完成すれば、幅20メートル、高さ4メートルほどになるという。
今はまだ黒いパネルが数枚並んでいるだけだった。
「ずいぶん大きいな……」
理沙は見上げた。
すぐ近くで作業員が工具を動かしている。
金属音が響いた。
「リサ、次いける?」
「はい」
振り返る。
感心している暇はなかった。
*
台車を押して、また搬入エリアへ戻る。
機材を積む。
エレベーターへ運ぶ。
上がる。
降ろす。
また戻る。
その繰り返しだった。
システム管理という求人を見て応募したときには、ここまで身体を使う仕事だとは思っていなかった。
採用面談では、
「最初のしばらくは、新センターの構築支援が中心になる」
とは聞いていた。
確かに間違ってはいない。
ただ、「構築支援」という言葉には、重い机や機材を何度も台車で運ぶことまで含まれていたらしい。
前任者の何人かが短期間で辞めた理由も、働き始めてから分かった。
夜勤。
搬入。
設置。
長時間の立ち仕事。
進捗次第では予定がずれる。
楽な仕事ではない。
その代わり、給与はよかった。
アルバイトを二つ掛け持ちしていたころとは比べものにならない。
理沙には、それで十分だった。
それに、不思議と嫌ではなかった。
じっと机に座っているより、身体を動かしている方が性に合っている。
何より、昨日まで空いていた場所に機材が入り、少しずつ形になっていくのを見るのは面白かった。
*
「休憩!」
声が響いた。
理沙は時計を見た。
午前零時。
ここでは、それが昼休みだった。
フロアの端に設けられた簡素な休憩スペースへ移動する。
10人ほどの作業員が、それぞれ椅子に腰掛けた。
理沙も持ってきた食事を開く。
誰かが飲料ボトルの蓋を開ける。
紙袋が擦れる。
容器の蓋を剥がす音がする。
それ以外は、ほとんど何も聞こえなかった。
皆、疲れている。
わざわざ話すこともないらしい。
遠くでは作業を続けている別班の工具音が聞こえている。
理沙は黙って食べた。
以前なら、10人も人が集まれば誰かが何か話していた。
ここでは、誰も気にしない。
理沙も気にならなかった。
食べ終わる。
水を飲む。
腕を伸ばす。
肩が少し痛い。
「明日は筋肉痛かな」
小さく呟いた。
誰も聞いていなかった。
それでよかった。
*
そんな夜が、二週間ほど続いた。
初めは床に積まれていた機材が、一つずつ決められた場所へ収まっていった。
コンソール机が列を作る。
ラックが並ぶ。
ディスプレイが壁を埋める。
床下へ大量のケーブルが引き込まれる。
一本ずつ接続される。
電源が入る。
最初は真っ黒だった画面に、テストパターンが表示される。
さらに数日後。
交通情報を模したデータが流れ始めた。
理沙の仕事も、少しずつ変わった。
運ぶ。
据える。
つなぐ。
それだけだったものが、
接続状態を確認する。
ログを見る。
通信試験の結果を記録する。
異常が出た箇所を担当者へ伝える。
そうした作業へ移っていった。
東京のシステム会社で覚えたことが、ようやく役に立ち始めた。
理沙は端末の前に立ち、接続確認の結果を見ていた。
一つ。
正常。
次。
正常。
3つ目。
応答なし。
「4番系統、返ってきてません」
近くの担当者へ声をかける。
「どこ?」
「ここの中継から先です」
「了解。見てくる」
担当者が立ち上がった。
理沙はその背中を見送り、次の項目へ進んだ。
淡々としている。
けれど、機械を運んでいたころとは少し違う。
目の前の機器が、単なる箱ではなくなり始めていた。
*
時々、作業リーダーについて二つ上のフロアへ行くことがあった。
そこには、現在稼働中の交通制御センターがある。
その夜も、現行システムとの確認事項があり、理沙はリーダーの後について廊下を歩いた。
認証を通る。
扉が開く。
その向こうで、空気が変わった。
理沙は足を少し緩めた。
広いオペレーションルーム。
正面いっぱいに、巨大な表示画面が広がっている。
幅は20メートルほど。
道路網。
交通量。
規制情報。
各地から集まってくる状態表示。
その手前には、何列ものオペレーション席が並んでいた。
20人ほどのオペレーターが画面に向かっている。
誰も大声を出していない。
誰も慌ただしく走ってはいない。
そのとき、短い警告音が鳴った。
壁面の一角に表示が現れる。
道路上の事故らしい。
理沙は反射的にそちらを見た。
一人のオペレーターが情報を開く。
別の席から何か確認する声がした。
事故地点が拡大表示される。
迂回情報。
交通量。
周辺道路の状態。
何人かが短い言葉を交わす。
それだけだった。
数分後には、表示の一部が更新されていた。
理沙はしばらく、その様子を見ていた。
大きな事故かどうかは分からない。
それでも、ここでは何かが起きるたびに、人とシステムが淡々と動いている。
「行くよ」
リーダーが先へ進んだ。
「あ、はい」
理沙は後を追った。
振り返る。
オペレーターたちは、もうそれぞれの画面へ戻っていた。
*
二つ下のフロアへ戻る。
扉を開けると、そこにはまだ工事中の光景が広がっていた。
壁面ディスプレイの一部は点灯している。
別の一部は、まだ黒い。
コンソール席には保護シートが残っている。
床では作業員がケーブルをまとめていた。
理沙は少し立ち止まった。
二つ上では、今のシステムが動いている。
事故が起きれば、情報が集まり、人が判断し、交通が動き続ける。
そして、このフロアでは。
その次を担うものが、まだ作られている途中だった。
「リサ」
呼ばれた。
「はい」
「次、接続試験やるよ」
「分かりました」
理沙はコンソールへ向かった。
深夜の建物の中で、新しい監視制御センターは、少しずつ形になっていた。
誰にも急かされることなく。
けれど、確実に。
その中に、理沙の仕事も混じり始めていた。
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