003_06_夜勤にて(1)

 台車の車輪が、硬い床の上で低い音を立てていた。

 理沙は両手で取っ手を押しながら、ゆっくりと廊下を進んだ。

 載っているのは、梱包を解いたばかりのフラットパネルディスプレイと、分解されたコンソール机の部材だった。

 見た目以上に重い。

 エレベーターの前で台車を止める。

 扉が開いた。

 中へ押し込む。

 身体を横へずらし、自分も乗る。

 階数ボタンを押すと、静かに扉が閉じた。

 壁面の時計は、午後11時を少し過ぎたところだった。

 もう遅い時間だという感覚は、ほとんどない。

 この仕事を始めて、一か月。

 週のうち4日は、昼と夜が逆になっていた。

 最初の数日は朝方になると身体が重くなったが、今では深夜になっても眠気はほとんど来ない。

 夜中に働くことだけなら、昔から慣れていた。

 ただし、あのころとはずいぶん違う。

 ステージの照明もない。

 音楽もない。

 あるのは、機械の音と、工具の音と、時々飛んでくる作業指示だけだった。

 エレベーターが止まった。

 理沙は再び台車を押した。

     *

「それ、3番区画。壁際へ」

 作業リーダーが手を上げた。

「了解」

 理沙は短く答えた。

 台車を方向転換する。

 部屋は広かった。

 二か月ほど前までは、備品を置いておくだけの倉庫だったらしい。

 今では、その面影はほとんどない。

 床には作業区域を示す線が引かれ、その内側には機材の箱が何列にも並んでいる。

 開梱されたラック。

 まだフィルムの付いたディスプレイ。

 束ねられたケーブル。

 組み立て途中のコンソール。

 天井からは仮設の配線が何本も下りていた。

 フロアのあちこちで、人が黙々と手を動かしている。

 ここはやがて、新しい監視制御センターになる。

 全米5か所で構築が進む新しい交通制御センターと接続され、道路や交通設備から上がってくる情報を集約する予定だった。

 今はまだ、その姿を想像する方が難しい。

 理沙は台車を壁際へ止めた。

 前方では、巨大な壁面の一部にディスプレイの取り付け作業が始まっていた。

 完成すれば、幅20メートル、高さ4メートルほどになるという。

 今はまだ黒いパネルが数枚並んでいるだけだった。

「ずいぶん大きいな……」

 理沙は見上げた。

 すぐ近くで作業員が工具を動かしている。

 金属音が響いた。

「リサ、次いける?」

「はい」

 振り返る。

 感心している暇はなかった。

     *

 台車を押して、また搬入エリアへ戻る。

 機材を積む。

 エレベーターへ運ぶ。

 上がる。

 降ろす。

 また戻る。

 その繰り返しだった。

 システム管理という求人を見て応募したときには、ここまで身体を使う仕事だとは思っていなかった。

 採用面談では、

「最初のしばらくは、新センターの構築支援が中心になる」

 とは聞いていた。

 確かに間違ってはいない。

 ただ、「構築支援」という言葉には、重い机や機材を何度も台車で運ぶことまで含まれていたらしい。

 前任者の何人かが短期間で辞めた理由も、働き始めてから分かった。

 夜勤。

 搬入。

 設置。

 長時間の立ち仕事。

 進捗次第では予定がずれる。

 楽な仕事ではない。

 その代わり、給与はよかった。

 アルバイトを二つ掛け持ちしていたころとは比べものにならない。

 理沙には、それで十分だった。

 それに、不思議と嫌ではなかった。

 じっと机に座っているより、身体を動かしている方が性に合っている。

 何より、昨日まで空いていた場所に機材が入り、少しずつ形になっていくのを見るのは面白かった。

     *

「休憩!」

 声が響いた。

 理沙は時計を見た。

 午前零時。

 ここでは、それが昼休みだった。

 フロアの端に設けられた簡素な休憩スペースへ移動する。

 10人ほどの作業員が、それぞれ椅子に腰掛けた。

 理沙も持ってきた食事を開く。

 誰かが飲料ボトルの蓋を開ける。

 紙袋が擦れる。

 容器の蓋を剥がす音がする。

 それ以外は、ほとんど何も聞こえなかった。

 皆、疲れている。

 わざわざ話すこともないらしい。

 遠くでは作業を続けている別班の工具音が聞こえている。

 理沙は黙って食べた。

 以前なら、10人も人が集まれば誰かが何か話していた。

 ここでは、誰も気にしない。

 理沙も気にならなかった。

 食べ終わる。

 水を飲む。

 腕を伸ばす。

 肩が少し痛い。

「明日は筋肉痛かな」

 小さく呟いた。

 誰も聞いていなかった。

 それでよかった。

     *

 そんな夜が、二週間ほど続いた。

 初めは床に積まれていた機材が、一つずつ決められた場所へ収まっていった。

 コンソール机が列を作る。

 ラックが並ぶ。

 ディスプレイが壁を埋める。

 床下へ大量のケーブルが引き込まれる。

 一本ずつ接続される。

 電源が入る。

 最初は真っ黒だった画面に、テストパターンが表示される。

 さらに数日後。

 交通情報を模したデータが流れ始めた。

 理沙の仕事も、少しずつ変わった。

 運ぶ。

 据える。

 つなぐ。

 それだけだったものが、

 接続状態を確認する。

 ログを見る。

 通信試験の結果を記録する。

 異常が出た箇所を担当者へ伝える。

 そうした作業へ移っていった。

 東京のシステム会社で覚えたことが、ようやく役に立ち始めた。

 理沙は端末の前に立ち、接続確認の結果を見ていた。

 一つ。

 正常。

 次。

 正常。

 3つ目。

 応答なし。

「4番系統、返ってきてません」

 近くの担当者へ声をかける。

「どこ?」

「ここの中継から先です」

「了解。見てくる」

 担当者が立ち上がった。

 理沙はその背中を見送り、次の項目へ進んだ。

 淡々としている。

 けれど、機械を運んでいたころとは少し違う。

 目の前の機器が、単なる箱ではなくなり始めていた。

     *

 時々、作業リーダーについて二つ上のフロアへ行くことがあった。

 そこには、現在稼働中の交通制御センターがある。

 その夜も、現行システムとの確認事項があり、理沙はリーダーの後について廊下を歩いた。

 認証を通る。

 扉が開く。

 その向こうで、空気が変わった。

 理沙は足を少し緩めた。

 広いオペレーションルーム。

 正面いっぱいに、巨大な表示画面が広がっている。

 幅は20メートルほど。

 道路網。

 交通量。

 規制情報。

 各地から集まってくる状態表示。

 その手前には、何列ものオペレーション席が並んでいた。

 20人ほどのオペレーターが画面に向かっている。

 誰も大声を出していない。

 誰も慌ただしく走ってはいない。

 そのとき、短い警告音が鳴った。

 壁面の一角に表示が現れる。

 道路上の事故らしい。

 理沙は反射的にそちらを見た。

 一人のオペレーターが情報を開く。

 別の席から何か確認する声がした。

 事故地点が拡大表示される。

 迂回情報。

 交通量。

 周辺道路の状態。

 何人かが短い言葉を交わす。

 それだけだった。

 数分後には、表示の一部が更新されていた。

 理沙はしばらく、その様子を見ていた。

 大きな事故かどうかは分からない。

 それでも、ここでは何かが起きるたびに、人とシステムが淡々と動いている。

「行くよ」

 リーダーが先へ進んだ。

「あ、はい」

 理沙は後を追った。

 振り返る。

 オペレーターたちは、もうそれぞれの画面へ戻っていた。

     *

 二つ下のフロアへ戻る。

 扉を開けると、そこにはまだ工事中の光景が広がっていた。

 壁面ディスプレイの一部は点灯している。

 別の一部は、まだ黒い。

 コンソール席には保護シートが残っている。

 床では作業員がケーブルをまとめていた。

 理沙は少し立ち止まった。

 二つ上では、今のシステムが動いている。

 事故が起きれば、情報が集まり、人が判断し、交通が動き続ける。

 そして、このフロアでは。

 その次を担うものが、まだ作られている途中だった。

「リサ」

 呼ばれた。

「はい」

「次、接続試験やるよ」

「分かりました」

 理沙はコンソールへ向かった。

 深夜の建物の中で、新しい監視制御センターは、少しずつ形になっていた。

 誰にも急かされることなく。

 けれど、確実に。

 その中に、理沙の仕事も混じり始めていた。



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